あいくるしい
「雨、やまないっすね」「そうだな」
3月も下旬のしかしまだ肌寒さを感じる夕暮れ時、氷雨が降りやまない空を眺めながら桐山と沼井は薄暗い放課後の教室で足止めを食らっていた。二人とも傘を持っておらず、走って帰るかどうか迷っているうちに本降りになってしまったのだった。もうかれこれ20分にもなろうか。
じっと座って静かに本を読んでいる桐山とは対照的に、沼井は椅子をギーコギーコと漕いだり立ち上がって教室をうろうろ歩き回ってみたりと落ち着きがない。
「俺は別にヒマだからいいけど、ボスは用とかなかったんすか」
黒板消しで黒板を撫でながら振り向きざまに聞いた。黒板消しからこぼれるチョークの粉が弓なりに白い軌跡を描く。
「今日は家庭教師が来ているはずだ」
「え、マジっすか。いいんすか、こんなことしてて」
「まあ仕方ないだろう、この雨では」
「俺、今度から絶対置き傘するようにしますから!」
「それに」
「はい!」
「たまにはおまえと二人きりというのも悪くない」
本のページに目線を落としたまま桐山はあっさりとそう言った。
それってどういう意味ですか? と聞きかけて沼井は言葉を飲みこんだ。きっとそれはそのままの意味なのだろう。桐山は常にそうである。言葉のままの意味と心のままの言葉。
心。
そう思うと沼井は途端に気になった。自分とはあまりに違うために想像することもかなわない桐山の心というものが。
「あの、ボ、ボス」
「なんだ」
「あ、いや……なんでもないです。すいません」
沼井は黒板消しを置き手を擦り合せて粉を払った。手は湿り気を帯びてしっとりとしている。席に戻ると桐山の読んでいる本の端もくるりと弧を描くように折れ曲がっていた。教室内に設置されている温度計は湿度80%を示している。雨はいまだ勢いを弱める気配がない。
「まったくひどい雨模様ですよね」
沼井の言葉に桐山ははじめて顔を上げた。
「違う。雨模様は今にも降りそうな様子を表す言葉だ」
沼井にとっては意外な、しかし桐山らしい返答だった。
「へ、へぇ。そうなんだ」
「よくある誤用だ」
「ボスはなんでもよく知ってますよね。俺なんか今日の漢字テスト10点でしたよ。明日の放課後追試だって。80点以上取らないといけないって、へへ」
「ただ覚えればいい」
「いやぁ、それがボスみたいにはいかないんすよ。もともとの出来が違うから。勉強つってもどこからやればいいかわかんないし」
桐山はそれには答えず、おもむろに本を閉じると鞄にしまった。
「テスト持ってるか。充」
「ありますけど…」
「見せてくれ」
沼井は床に置いた薄っぺらい学生鞄に手を突っ込んでテストを取り出した。くしゃくしゃに丸まっているのを丁寧に広げ、机の上でしわを伸ばした。
「ほとんど書いていないな」
「すいません」
「なぜ謝る?」
「あ、なんとなく。すいません」
「問題は全く同じなんだろう?」
「え?」
「いいか、集中してやれ」
こうして思いもよらず、桐山の個人授業が始まった。
テストは全部で10問。1問10点で計100点。
「問1(じゅんけっしょう)で敗れてしまった。これだけできているのは?」
「あ、それ昨日TVでボクシングの試合見てて何回も出てきたから。猪俣のやつ」
「そういうことか」
「あとはなんか考えるのめんどくさくなっちゃって」
「…ということは考えてもいないということだな」
そう言うと桐山はテストを裏返し、10問あった問題を丸々書き写した。
「もう覚えてるんすか?すげー!」
「とりあえずもう一度ちゃんとやってみろ」
桐山はテストを沼井の方へ向けるとシャープペンを差し出した。沼井はしぶしぶそれを受け取り問題を解きにかかった。
「できました」
約10分をかけて沼井はなんとか全ての問題を埋めた。
「問2、先生の(四角)を取る。充、文章の意味は分かっているか?」
「分かってるんですけど、それしか思いつかなくて」
桐山は赤で“資格”と書き直した。
「問3、先方の(行こう)を聞く」
沼井の傾向は見えてきた。覚えられないのではなくただ知らないのだ。その後7問中5問が同じように読みの違う別の言葉で答えられていた。桐山は淡々と採点を続けた。
「問10、なんとも(愛苦しい)犬だ」
その答えを見て桐山は一瞬驚いたような顔をした。そして“苦しい”に二重線を引き、“くるしい”とひらがなで書き直した。
「“くるしい”は愛にかかる強意の接辞だ」
「ああ、これはひらがなでいいんすね」
そう答えたが“強意の接辞”という桐山の表現を沼井は理解できていなかった。
「しかしお前は面白い間違い方をするな。なまじ正解を知っているとこういう言葉の組み合わせは思いつかない。」
「ボスは間違いとかありえないっすもんね」
「そうか?」
「そうっすよ」
小さくうなづくと桐山は窓に目をやった。まだ雨は降り続いている。
「まるで遣らずの雨だな」
「やらずの雨?」
「客人を帰したくないかのようにやまない雨のことをそう言うんだ」
「このままやまないでもいいですけど、俺は」
桐山が沼井に向き直ると二人の視線がぶつかった。
「しかし雨はいつか必ずやむものだ」
事実を事実のままに伝える桐山の声は冷たく聞こえる。本人の意図とは関係なく。
「そう、ですよね」
「でも」
再び窓の外に視線を向けて桐山はぽつりとつぶやくようにして言った。
「やまない雨というのがあってもいいのかもしれないな」
沼井は思わず桐山に触れていた。冷えた頬が自らの手のあたたかさを感じさせる。いつでも桐山は拒絶しない。そう、思えば最初からそうだった。
「目、閉じてください」
桐山は沼井の言葉にも素直に従った。
「明日は100点間違いなしですよ、ボス」
校舎を出ると空は先ほどまでが嘘のように青く晴れ渡っていた。帰りの道すがら側溝には蒲公英が芽吹き、鳥たちの鳴き声も心持ち弾んで聞こえる。もう、春は近いのだ。