蟻の軍隊
今日学校に行ったら机にコンパスの針で“メグたん命”と彫られていた。メグたんは俺が今夢中になっているゲームの主人公の名前だ。昨日は新作のゲームを買うために持ってきていたお金を取られたし、その前は体育のランニング中に足をかけられてみんなの前で転んだ。クラスメイトたちはただ笑っていた。誰も助けてはくれなかった。でも典子さんだけは手を差し伸べようとしてくれた。でもそれを誰かが止めたので結局俺はぶざまに自力で立ち上がるしかなかった。
その前の日は廊下ですれ違う時に背中に氷を入れられたし、その前の日はヘアムースで無理矢理髪を変な形に固められた。それを見てあいつー笹川竜平ーは“ウンコマンじゃん~”と笑った。
そしてその前の日は、その前の前の前の日はー。
みんなが俺を馬鹿にしている。
耳を塞いでも嘲笑の声が聞こえる。直接手を下さないやつらもきっと心の中では嘲り笑っているんだろう。
「デブ」「邪魔」「トロい」「小心者」「ゲームオタク」「頭が悪い」「根暗」「友達いない」「キモい」「空気読めない」「ていうかウザい」「死ね」「死ね」「死ね」
言葉にならない悪意が蟻の大群のように俺を覆っている。ちくりちくりと致命傷にはならない小さな傷が積み重なっていく。それはやがて俺の全身に赤い痣を作り、気が狂うほどの痛みを感じても、しかし俺はきっと死ぬことなどできない。
ミニゲームをプレイしながら重い足取りで学校へ向かう俺の目の前から専守防衛軍の軍隊がやってきた。道行く人々は一斉に道路の脇に体をよけ、軍に向かって“お決まりの一風変わった敬礼”をした。もちろん俺もゲームをポケットにしまいそれに倣った。
軍隊は一糸乱れぬ行進でザッザッと通り過ぎて行った。この国ではさほどめずらしい光景ではない。すでに日常の一部だ。大きなトラックが来たからよけた、その程度のことだ。
軍がいなくなると人々は何事もなかったかのように先を急いだ。俺はミニゲームをポケットから取り出そうと下を向いた。すると道になにか落ちている。銀色の、なんだ?
拾い上げてみるとそれは弾丸だった。銃に込めるやつだ。さっきの軍隊が落として行ったのだろうか?だとしたらこれは本物のー?
そこまで考えをめぐらせると俺は誰も見ていないのを確認してそれを素早くポケットに隠した。
弾丸をポケットに忍ばせて俺はいささか興奮していた。ポケットに手を入れてそれを握る。
ずっしりとした鉛の重み。ひんやりとした感触。鈍色のボディ。非日常的な雰囲気を纏う小さな爆弾。爆弾。俺の。あいつらはこれを持ってない。国語の退屈な授業など全く耳に入らなかった。
目が悪いので一番前の席に座っている俺は後ろにいる41人の生徒たちを出席番号順にひとりひとり思い浮かべた。いや、正確には典子さんは除く40人だ。彼女だけは違う。
飯島、大木、織田、川田、桐山、国信、倉元、黒長、笹川…? 笹川! 笹川!
笹川竜平。育ちの悪い不良グループの一員で沼井や桐山といつもつるんでいるあいつ。“一日一いじめ”と言って俺を見つけてはからかうことを趣味にしている男。一番許せなかったのは女子(最悪なことにその中には典子さんもいた)の前でズボンとパンツを下ろされたことだ。 きゃあと悲鳴を上げた女子達はなぜか笹川ではなく俺を軽蔑のまなざしで見た。
あいつだ。あいつにしよう。
教室の右隅、後ろの出入り口に一番近い席に座っているであろう笹川を俺は背中の目で見た。いつものように椅子に浅くだらりと腰掛け、教科書も出さず携帯でもいじっているだろうあいつの姿をできるだけ鮮明に思い描いた。
金色に近いまでに脱色された髪や細く剃られた一本調子な眉毛、目つきの悪い一重の目、いつも俺を殴る安いシルバーのはめられた指と手、骨の浮いた細い体、丸い背中と腰までずらしたズボン、前歯が一本欠けた下品な言葉しか吐かない口など。あらゆる細部に渡ってあいつの姿を想像した。
そして俺は振り向き、撃つ。照準を定め、ためらいなく正確に。
一匹の蟻めがけて弾丸は美しく飛び、めり込む。そのシーンがスローモーションで脳裏をよぎる。そして蟻の小さな体はあっけなく破壊されるのだ。木っ端みじんに。苦痛を感じる間もなく死に至るというのはいささか不満ではあるが、その肉が血が、激しく四方に飛び散る様はまさに感動的な光景だろう。その様子を目にして他の蟻たちは驚き怯え逃げ回る。俺はそれを眺めてにやりと笑うのだ。
放課後、笹川に呼び出された。指定された時刻に体育館の裏手へ行こうと校舎を出ると典子さんに出会った。
「赤松くん。帰り?」
「あ、うん」
目を合わせられない。恥ずかしい。彼女にはぶざまな姿をたくさん見られてしまっている。きっとかっこわるいやつだって思ってる。いやだ。早くここから立ち去りたい。早く。早くー。
「赤松くん」
「な、なに?」
「あの、こないだはごめんなさい」
いきなり謝られて俺は一層混乱した。
「な、何が?」
「体育の時間、あなたが足をかけられて転んだとき、あたし助けなきゃって思ったんだけど、恵に“やめときな”って言われて、それで立つのをやめてしまったの。だから…」
俺は頭を殴られたようだった。あの時のことを彼女は覚えてくれていたという驚きと、あれは俺の勘違いではなかったという嬉しさで。
「みんな自分が巻き込まれるのが怖いのよ。あたしもきっと、そう。弱いから他の人をいじめたりするんだわ。そういうのっていけないことだし、本当は止めなきゃいけないと思うの」
「そ、そうだね…」
「いじめてた子が次の日にはいじめられてるなんてよくある話でしょ。でも赤松くんは他の人をいじめたりしないもの。強いと思うわ」
典子さんと別れると笹川との約束を反古にして俺はそのまま学校を出た。明日学校へ行った時のことを考えると不安にならないわけではなかったけど、今日だけはそうすべきだと思ったから。
帰り道、俺はポケットから弾丸を取り出すと通学路脇の小川に捨てた。
ぼちゃんと音を立てて川底に沈んで行く様子を眺めていたら、後ろから犬に吠えられて驚き、派手に尻餅をついた。
「あらあら、ごめんなさいねぇ」
飼い主らしきババアに謝られた。
「大丈夫です」
俺の声に答えるように犬が一声ワンと吠えた。