つめたいベンチ
煙草の火ってあんなに熱いんだ、と祐子は左袖をめくり赤く腫れ上がっている部分を風に晒した。どくん、どくんと脈を打つたびに痛みが伝わる。祐子はまだ幼かったので跡が残るかもしれないとは心配しなかったが、ただ家に残して来た母親と兄のことを考えていた。いつものように酔っぱらって帰って来た父親に母がほんの少し口ごたえをしたことからそれは始まった。口ごたえと言ってもたいしたことではない。酔っぱらったまま風呂に入ろうとした父親に、あぶないから酔いが醒めるまで待ったらどうかと言っただけなのだ。祐子にはどう考えても母親の言い分のほうが正しく聞こえたし、実際そうだった。しかし祐子の家で正しいということは父親の圧倒的な暴力の前に簡単に崩壊する。
最初に母親が殴られた。ガラス戸に激突した母親は扉の角で目の上を切った。吹き出す血を目にして祐子はとっさに母親をかばおうと仁王立ちになっている父親の前に飛び出したのだが、父親は鬼のような形相で「なんだその目は」と祐子を怒鳴りつけ、腕を掴み袖をめくり上げると騰踏なく街えていた煙草を押し付けた。あまりのショックに祐子は声が出なかった。遠くで母親の悲鳴のようなものが聞こえていたような気がするが、はっきりとは覚えていない。
そうして気がつけばここにいた。誰もいない公園のベンチに腰をかけて、木々の向こうに見える家々を眺める。
――あんなにたくさんおうちがあるのに、なんであたしのうちはあの家なの。あたしはふこうだ。
祐子は自分の不運を呪った。
二月の朝は身を切る寒さで、座るベンチも氷のように冷たい。指と耳がちぎれそうだ、このまま座っていたら凍えてしまう、と祐子が重い腰を上げた時だった。入り口に面した道路の向こうから犬が走ってきた。首輪から伸びるリードの先に飼い主の姿はない。
「エディ! だめだよ! 勝手に行っちゃ!」
少年の声だけがどこからか聞こえる。エディと言うらしいその犬はおかまいなしに公園の中へ駆け込んで来て砂場の砂を嬉しそうに掘り始めた。どうやら砂に埋まった靴が欲しいらしい。
しばらくすると声の主であるらしい少年が後を追って公園へやってきた。はあはあと苦しそうに吐き出される息のひとつひとつがまるで白い雲のように浮かんでは消えていく。
そのようすをぼんやり見ていた祐子は、少年が同級生であることに気付いた途端その場から駆け出した。別に悪いことをしていたわけではなかったし、むしろ祐子は被害者だったのだが、なぜか姿を見られてはいけないような気がしたのだ。
靴音に振り返った少年は走り去る少女の後ろ姿を見た。そしてエディはあいかわらず砂を掘り続けていた。
「どうして嘘をつくの?」
放課後、他の生徒たちが学芸会の練習を楽しそうにしているそばで、祐子は教室の隅にひとり立たされ教師に厳しく咎められている。
「嘘をつくのはいけないことよ、先生は間違ったことを言っているかしら?」
しかし祐子は頑に謝ろうとはしない。
「嘘じゃないもん……」
「どうなさったんです」
別の教師が間に入ってきた。
「ああ、先生。いえ、祐子ちゃんがまた……」
「嘘じゃないもん!」
「祐子ちゃん!」
教師二人を振り切り、祐子は教室を飛び出した。すぐに教師たちが探して回ったが祐子はどこにも見当たらなかった。
「どうします? 親御さんに連絡しますか?」
「いえ、もう少し探してみましょう。あの恰好と子供の足でそう遠くへは行けないはずですから」
教師たちのそのすぐそば、校庭の朝礼台の下で祐子は息を潜めていた。そして「いまおかあさんはパートに行ってる時間だから家に連絡したって誰も来ないよ」と口をとがらせてつぶやくと、そばに落ちていた小枝で足元の砂にアニメの主人公のイラストを描き始めた。そのアニメは魔法使いの女の子がいろいろな人の願い事を叶えてあげるお話で、毎週日曜日の朝にやっている。日曜日はたいてい父親が競馬か競輪か要するになにかしらの賭け事に出かけていないので祐子は安心してテレビを見る事が出来る。だから一週間の中で日曜日の朝が祐子は一番好きだった。
「ドリンパ…… ドリンパ……」
「ドリリンパ!」
声に振り向くと少年が屈託のない笑みを浮かべて祐子の隣にしゃがみ込んでいた。ぎょろりとした目がくりくりと愛らしいその少年は隣のクラスの国信慶時だ。
「《魔法天使リリ》だろ?」
「男の子なのにどうして知ってるの?」
「だって施設にはテレビがいつこしかないから日唯日の朝は女の子たちに取られちゃうんだ」
「しせつ?」
「孤児院だよ」
「こじいんってなに?」
「お父さんとお母さんがいない子供の家だよ」
「国信くんはお父さんとお母さんがいないの?」
「うん」
「じゃあ学芸会はだれが見にくるの?」
「施設の先生」
「そうなんだ」
「お父さんとお母さんのいる子はしあわせだよ」
その慶時の言葉に祐子は苛立った。
――なにも知らないくせに。
「でもお父さんとお母さんがいてもしあわせじゃない子もいるよ」
祐子の口調に刺々しさがにじむ。
「そんなことないよ。どんな親でもぜったい親はいたほうがいいよ」
「いないほうがいい親もいるよ」
「そんなことないよ」
「あるよ」
「ないよ」
「あるよ! だって、だってあたしお父さんいらないもん!」
「そんなこと言って本当にいなくなっちゃったらどうするのさ」
「……いなくなっちゃっていいよ。だってあたしお願いしてたとこなんだもん。《リリ》に」
祐子はぶつぶつと例の呪文を唱えながら手にした棒切れで延々と円を描き続けている。慶時はその焦点の合わないぼんやりした目の中を覗き込むように体を前に折り曲げ、訊いた。
「なんて?」
祐子の手がぴたりと止まった。そして今まで描いていた円の上に大きくバツ印を付けるとはっきり言い放った。
「お父さんをいなくしてください、って」
慶時が祐子の父親が亡くなったことを知ったのはそれからしばらく経った朝のことだ。エディの散歩当番で他の子供たちよりも一足早く起きていた慶時が玄関で靴を履こうとしていると食堂から声がした。廊下の柱の影からこっそり覗くと、先生たちが怪誹な顔つきでなにやら話し合っている。
「昨晩、榊さんのお父様がお亡くなりになったそうです」
施設長の安野先生が神妙につぶやく。他の先生も黙って話を聞いている。
「事故ですか? それともご病気?」
「詳しいことはわかりませんが、なんでも酒場でのいざござに巻き込まれたとか」
それを聞いて慶時はほっとした。ほっとした、というのもおかしな話だが、もしかして祐子が殺したのではないかととっさに思ったからだ。
――お父さんをいなくしてください、って。
慶時の脳裏にあの日の祐子の姿と言葉がよぎった。
エディを連れて外へ出ると、ずいぶんとやわらいだもののやはりまだ空気はひりひりと肌を刺す冷たさを持っている。
公園の入り口へ差し掛かったところで慶時の足が止まった。ベンチに座っている見覚えのあるおかっぱのうしろ頭は祐子だった。コートも羽織らず、寝間着のままなのかトレーナーの上下にピンク色のサンダルといういでたちで。サンダルには例の魔法少女のイラストが描かれている。
祐子は笑っていた。ぶつぶつとなにごとかをつぶやきながら。すぐそばで立ち尽くす慶時に気付くことなく、しばらくすると祐子は去って行った。
完全に祐子の姿が見えなくなってから慶時はゆっくりとベンチに近づいた。そして祐子が座っていた場所へそっと手を伸ばすと、あたたかな体温が感じられるはずのそこはひんやりとつめたいままだった。