ベスト・ドレッサー
幼い頃から長時間パソコンをいじっていた弊害か、俺の視力は右左共に0.3しかない。部活の絡みもあっていつもはコンタクトを使用しているが、昨日は遅くまでプログラムを作っていてそのままうっかりうたた寝してしまい、気付けば窓の外で小鳥がさえずっていた。つけっぱなしのコンタクトは目に張り付いていて、はがすとめりっと音がした(ような気がする)。
わりとデリケートにできている俺はハードレンズが性に合わない。ソフトレンズは洗浄が必須なのだが、聞けば1ヶ月付けっぱなしで平気だという奴もこの広い世の中にはいらっしゃるらしい。が、あいにく俺は洗ってない汚れたレンズをつけるくらいならいさぎよく眼鏡にシフトする方を選ぶ。
幸い今日は顧問が教育委員会の会議とやらに出席するらしく部活は休み。オーケイ、これも日頃の行いがいい俺だからこそだ。
教室に入るとさっと視線が集まるのを感じた。なんだよ、俺が眼鏡をかけてるのがそんなにめずらしいか?
「あれ信史今日は眼鏡?」
鞄を机の横にかけ席に着くと、豊が寄ってきた。手にはなぜかホウキが握られている。しかし朝はあまりご機嫌麗しくない俺なので、それにあえて突っ込みはしなかった。
「コンタクト洗うの忘れた」
「めずらしいじゃん」
「俺だってたまにはミスもするさ。完璧すぎるのはつまらないからな。にしてもー」
「え?」
俺の視線の先に豊は目をやった。女子グループが固まって俺の方をちらちら見ながらなにやら話している。
「変?」
「え?ああ、別に変じゃないよ。頭良さそうに見える」
「良さそうじゃなくて良いんだけどな、実際」
「あいかわらず自信満々だな、三村」
七原がうしろから茶々を入れてきた。首を後ろに倒すと、七原が逆さに見えた。以前から栗色に染められていた髪がまた一段と明るさを増している。俺が七原と話しだすと、豊はホウキを持って教室から出て行った。(結局ホウキは何だったんだ)
「また髪染めたのか?」
「染めてねぇよ。勝手に色が抜けてきてんだろ」
「あんまチャラくしてっと馬鹿に見えるぜ」
「ご忠告どうも。じゃ、俺も眼鏡かけようかな。ちょっと貸して」
そう言うと七原は俺の眼鏡をひょいと取り上げた。変な体勢でいた俺はなすがままになってしまった。
「おい!」
七原は俺の静止を無視し、ふんふんと鼻歌を歌いながら眼鏡をかけた。
「うーん、キツい。おまえってけっこう目、悪いんだな」
「おまえは悪くねぇだろ。返せよ」
「うん、両方とも1.5」
「つか良すぎだし」
体勢を立て直しているうちに七原は女子グループのところへすたすたと歩いて行った。
「ねえ、どう?似合う?」
「似合う…よね。ねえ?」
「うん、いいと思う」
「惚れる?」
女子たちは恥ずかしそうにふふふと笑ったが、その中で委員長の内海だけが反応しなかった。黙って目をきょろきょろと泳がせている。
「それ、三村君の?」
江藤恵が聞いた。
「うん、そう。コンタクト洗うの忘れたんだってさ」
あいかわらず余計な一言の多いやつだ。しかしそれを持ち前の天然キャラでもって許されてるところが七原が七原たる所以だ。
その光景を見ながらなんだか青い春だねぇ、と俺は他人事のように思った。実際他人事なんだけど、俺にはそういうの、ないから。
「あ、杉村」
その七原の言葉にぴくりと反応したのは俺だ。おそらく誰にも気付づかれてはいないだろうが。
「おはよう」
そっけない挨拶(でも必ずする)を一言だけ放つと、杉村は七原たちを横目にすっと自分の席へ向かった。
「杉村くんってちょっと怖い感じする」
琴弾がつぶやいた。
「そうかなぁ。話すと別にそんなことないけど。なあ、杉村」
杉村は何も答えなかった。馬鹿、そういうのが駄目なんだよ、と言いたいのを俺は必死にこらえる。
「あ、杉村もかけてみろよ。これ」
そう言って七原は眼鏡を外し杉村にかけた。ていうかそれ俺の眼鏡だし。勝手にー。そこまで考えてどきりとした。そうだ、あれは俺のだった。
「あれ、結構似合うじゃん。ますます真面目そうだけど」
あははと七原が笑い声を上げた。女子たちは笑っていいのかどうか迷っているようだ。七原の肩越しに一瞬だけ眼鏡姿の杉村が見え、ふいに目が合った。杉村はすぐに眼鏡を外し七原に突き返した。あいかわらず、むすっとした表情のまま無言で。七原は両手の手のひらを上に向けて「やれやれ」というふうにオーバーアクションをした。女子たちはそれを見てようやく顔をほころばせた。
「な、正直誰が一番似合ってた?」
「えー。どうかな…」
皆が顔を見合わせ、答えを濁していると「やっぱり七原クンかな」と精一杯冗談めかして内海が言った。
「だってさ、三村!」
「あーそりゃようございましたねー。」
軽く返事をしたが、俺はもうそれどころではなかった。時間にしてわずか1、2秒のその映像が目に焼き付いて離れない。薄いガラス越しに寄越された視線に絡めとられたかのように俺は身動きがとれなくなってしまっていた。
授業が始まっても俺は七原から返された眼鏡をかけられずにいた。あいつの顔がまともに見れないのは裸眼だからか、それとも。
本日のベスト・ドレッサーは俺でもなければ七原でもない。
しかしそれを本人に伝えれば辞退すると言うだろうことは目に見えている。