ディア・チャイルド
「あの日」から1週間、信史は家で笑っていない。信史には確信があった。父親が叔父の死に関わっているということに。それも一番悪い形で。
以前から仲がいい親子というわけではなかったが、あの一件を境にそれは決定的になった。自分の実父が叔父を、はからずも実の弟を見殺しにしたのだという考えが、小さくくすぶっていた信史の父に対する憎悪に新たな火をつけた。そして一旦火のついたそれは日に日に大きく激しく燃え上がっていった。
「おにいちゃん、起きてる?」
ドアの外で郁美の声がする。ベッドに目覚まし時計を持ち込んで見ると針は7時30分を差していた。ーあと5分、信史は頭からベッドへもぐりこんだ。
「おにいちゃん!!聞こえてんの!?」
今度はドアをドンドン叩きながら郁美が叫んだ。
「あーうるせーな!わかったよ!」
そう言うと外はぴたりと静かになり、階段をドタドタと降りていく足音が遠くで聞こえた。
シャワーを浴び、着替えて髪をセットすると1階へ降りた。リビングを横切るときにテーブルについて朝食をとっている郁美と武史、それとキッチンでトーストにバターを塗っている美枝子が見えた。
形だけは完璧な家族団欒だな、と信史は心の中で皮肉った。たしかに他人が見れば何も問題のない幸せな家庭に見えるだろう。しかし今この家で信史と会話をするのは郁美だけだ。武史は信史と目を合わせようともしないし、美枝子はそんな父親の顔色をうかがってばかりいる。
三人を横目にそのまま玄関に向かおうとした信史に郁美が声をかけた。
「おにいちゃん、食べないの?」
「放っておけ」
答えようと立ち止まり振り向いた信史よりも先に武史が言った。それは実に1週間ぶりの親子の会話だった。しかし武史は新聞から目を上げなかった。
一瞬にしてリビングの空気が張りつめた。郁美はしまったなぁという顔でトーストをかじった。美枝子は二人に背を向けたまま黙ってうつむいている。
「何、あてつけのつもり?」
たたき台に腰をかけ、靴ひもを結びながら感情を込めずに信史は言った。
「お前こそ何様のつもりだ。食事も一緒に取らん。顔を見ても挨拶もせん。俺が黙って見過ごしてやってると思って調子に乗るんじゃないぞ。」
「あのさぁ、そうやって親ぶんのやめてくんない?」
「何だと?」
「悪いけど俺、もうあんたの子供のつもりないから。」
武史の座っていた椅子が一瞬ガタンと揺れた。美枝子がとっさに手を差し出したが、心配したような事態にはならなかった。意外にも武史が信史に手を上げたことは一度もなかった。
「殴る根性もないんだろ」
そう吐き捨てて信史は家を出て行った。
リビングに残された三人はそのまま無言で朝食を取った。
いらつきながら足早に学校へ向かう信史のうしろから郁美の声がした。
「おにいちゃん待ってよぉ!」
信史は足取りを緩め、郁美が追いつくのを待った。かなり走ってきたのだろう、はあはあと肩で息をしている。
「なに」
「あの…ごめんなさい。さっきの……あたしが……」
「あ?」
自分の一言で信史と父が言い合いになったと思ったのだろう。郁美はばつの悪そうな顔で信史を見上げた。信史は笑みを作って言った。
「別におまえのせいじゃないよ」
「でも」
「おまえは何も悪くない」
「…うん」
郁美の頭をぽんぽんと二回撫でた。
「今週日直なんじゃなかったか?」
「あ、そうだ! ごめん、じゃ先行くね!」
手に持っていたバッグを脇に抱え直し、郁美は走っていった。
後ろ手にバイバイと手を振る郁美を信史は笑顔で見送った。