フラッグシップ
沼井は桐山の家に行ったことがない。正確に言うと門より中に入ったことがない。なぜなら桐山が頑にそれを拒むからだ。初めて桐山にそう言われたとき、沼井は家に入れてもらえないことにショックを感じるよりも桐山がそう「意志表示」したことに驚いたものだった。
昼休みの教室で沼井は車の専門雑誌を熱心にめくっている。ひととおり見終わると勢いよく本を閉じ、椅子の背もたれにもたれかかり大きく両手を掲げて早く免許を取りたいと言うのが沼井のお決まりのパターンなのだ。
「あー、早く免許取りてー」
「いつもそう言ってるな」
「だってカッコ良くないっすか?。あ、そういやボスんちってすげえデカいっすよね。」
「まあ、一般的な住宅に比べれば」
「やっぱ車とかも高級車?」
「黒の……」
そこまでで桐山はめずらしく言い淀んだ。
「黒の?」
「国産車だ」
「へぇ、意外すね。ベンツとかかと思ってましたよ」
「そうか」
それはたわいのない会話だった。現に5限目が始まると沼井はそのことなどすっかり忘れ、春の心地良い日だまりの中、古典の教師の声を子守唄にしてぐうぐうと呑気に居眠りをした。
それからしばらく経ったある日のこと。衣替えの近い5月下旬の、桜も散り春の名残がかそけく残る昼下がり、笹川と沼井は学校を出るといつもの道をどこへ行くでもなくのんべんだらりと歩いていた。
「どーする?充」
「ゲーセンも飽きたしなぁ。ウチは今日おふくろがいるし」
「めずらしいじゃん。てか、ウチも」
「マジで?」
「黒長んちは?」
「あいつ風邪じゃん」
「あ、そっか。馬鹿は風邪ひかねぇっつーの、あれウソだな」
学生鞄の代わりにしている部活用のスポーツバッグを頭にかけて笹川はキキと猿のような声を出して意地悪そうに笑った。
「そんなん迷信だろ。だってボス風邪ひいたことないし」
「…ボスんち、とか。」
「馬鹿。家は駄目だって言われてんだろ」
「でもさー、なんであそこまで拒むんだろな。なんか見られたらヤバいこととかあんじゃねぇの。」
沼井は困惑した表情になった。それは沼井も何度も考えたことだったからだ。一般市民には到底手に入りそうもない豪邸を見れば誰もが多少なりともそう思うだろう。桐山は自らのことをあまり語らない。数々の身辺に関する噂が飛び交うのはそのせいかもしれない。その噂のほとんどがいかがわしい、あまりイメージの良くない類いのものばかりなのは事実か下世話な好奇心によるものなのかは分からないが、結果それが益々人々の妄想をかき立てているのは間違いない。
「勝手な想像でそういうこと言うんじゃねぇよ。ボスに失礼だろ」
笹川は沼井ほど桐山に傾倒してはおらず、常にある程度の距離を保って接している。それゆえに沼井の桐山に対する発言に怪訝な顔を見せることもあるのだが、それを指摘したりするのはそれはそれでめんどうらしい。
「まあいいや。でも一回ぐらいあの家には入ってみてぇじゃん。メシとかも豪華なんだろうなぁ」
「なに、おまえ腹減ってんの?」
「言ったら減ってきた。なあ、なんか食いに行かね?」
沼井は鞄に入っている財布の中身を思い浮かべた。
「俺はいいや。」
「あっそ。じゃな。」
あっさりそう言うと笹川は駅前の商店街の方向へすたすた歩いて行った。いきつけのファースト・フード店にでも行くのだろう。隣接する「ホビーショップ MARUYA」で赤松義生あたりにでも出会えばいいヒマ潰しにもなる。
沼井の足は桐山の家の方向へ向いていた。別に笹川に言われたからってわけじゃないし、と自分にいい聞かせながら歩みは段々と早まっていた。
仰々しい門柱の前に立つとあたらめてその大きさに腰が引ける。いくつもある窓は全て閉じてカーテンがかかっており、手入れの行き届いた庭の仕上がりは見るからにプロの手によるものだ。全体的に洋風の雰囲気のそこはどう見ても「同級生の家」には思えなかった。
沼井は鉄格子に手をかけ隙間から中を覗いてみた。人の気配はない。低い呻きのような犬の鳴き声がかすかに聞こえる。瞬間的に沼井は黒いシェパードを思い浮かべた。しばらくようすを窺っていたが何も動きはなかった。沼井は鉄格子から手を離し、家の前から伸びる一本道を道を自分の家に向かって歩き出した。角を2つほど通り過ぎたところで後ろから車のエンジン音がした。振り返ると見慣れた黒のセダンがもうすぐ近くまで迫ってきていた。 国内トップメーカーの製造品で商品名をセルシオというその車は、抜群の乗り心地と「氷の上を走っているかのようだ」と評される高い静粛性が売りのフラッグシップセダンで、政府関係者の御用達になっている。なぜか色は黒と決まっているらしい。有事の際は必ずこの黒いセダンが街々を仰々しく連なって走る。ちなみに価格は新車で600万ほど。
沼井はぐっと身を引き締めると、道の端に体を寄せて車が通り易いように背中を壁に付けた。と、沼井の目に思わぬ光景が飛び込んだ。後部座席に桐山が座っていたのだ。一瞬だったが間違いなかった。沼井が桐山を見間違えるはずはない。
「ボス……」
沼井は道の真ん中へ進み出て走り去る車を見送った。車は時速60kmほどで沼井の目の前を通り過ぎ、次の角を左へ曲がって行った。
静かなエンジン音のせいでかなり近くに来るまで沼井はセダンに気付かなかったが、一本道を進んできた車の中からはおそらくずっと沼井の姿が見えていたはず。要するに桐山は沼井に気付いていたということだ。しかしすれ違う際にも桐山は沼井を一瞥すらしなかった。しかしその意味をあえて沼井は考えまいとした。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
音もなく静かに教室に入ってきた桐山が沼井の横を通り過ぎた。まるで昨日のセダンのようだった。一糸乱れぬ完璧な最高級品、黒いフラッグシップ。
「あの、昨日ー」
「気付いてたよ」
鞄の中から教科書を取り出しながら沼井の言葉を遮って桐山は小声で言った。
「声をかけようかと思ったんだが、ちょっと事情があってな」
「いや、それはいいんすけど」
「車のことか?」
見透かされている。沼井が目で合図すると桐山は静かに椅子に座り、近くに来いと沼井に手まねきをした。
「おまえの思っている通りあれは政府関係者の車だ。事情というのはそういうことだ。本当は口外無用なんだが」
「あ、いや、聞き出そうとかそういうんじゃなかったんですけど、すいません」
「謝ることはない」
「でも俺、絶対言いませんから」
「それは心配していないよ」
その桐山の言葉が沼井は嬉しかった。桐山に信頼されている、そのことが実に。
「ボ、ボス、今度家に行ってもいいですか?」
沼井は思いきって聞いてみた。タイミングはバッチリのはずだった。しかし。
「駄目だ」
桐山の答えに被さるように始業のチャイムが鳴った。