カバー・ガール
匂いによって記憶が呼び起こされる現象を「プルースト効果」と言うそうだ。いつかクラスメイトの三村信史に聞いた。なぜそんな話になったのかは、ええと、忘れた。
「あんたんちなんかレンタルビデオ屋っぽい。」
「は?どこのだよ。」
「駅前の『ビデオワーム』って店。あそこの匂いに似てる、ここ」
「ふーん。」
男は床に落ちている煙草から乱暴に一本抜き出すと火をつけた。箱を差し出し勧めてきたが断わった。
「今日は?」
「ショート」
「また?」
「嫌ならいいのよ」
そうするはずなどないと確信を持ってあたしは言う。男は手を伸ばし髪のあいだに手を差し入れ無表情で顔を近づけた。目を開けたままの長いキス。もちろん目を開けているのはあたしのほうだ。
「あからさまなのな」
「お望みなら目もつぶるけど」
「お前が思ってるよりは純粋なんだよ」
「純粋ってほんと男のためにある言葉よね」
普段あたしがメインで取っている客のことをこの男は知っているのだろう。親ほども年の離れた男ともっとたくさんのお金をもらって寝ていることを。単純な感想としてそんな女によくもまあと思う。あたしならそんな女お断りだ。
初めて一人暮らしをする若者が買い揃えるだろうチープな家具で埋め尽くされた部屋。男は長くも短くもないごくごく無難なセックスをした。多少急いた感じの前戯のあと入れて出して、しばらくそのままいるのが好きだと言った。あたしはたまになるべく我慢してる感じの声を出して、あとはじっとしてればよかった。楽だ。ただ、行為の最中にべらべらと喋るのだけは気に食わないが。
「こないだも思ったんだけど」
もうずいぶん慣れた感覚とはいえ、自分の中に他人がいるというのは多少心もとない。その心もとなさと冷めた感覚のぶつかりあうところに生まれる隙間に落ちないようにあたしはしっかりと目を開けている。
「俺、お前のことずっと前から知ってるような気がするよ」
「ダサい口説き文句」
「深読みするなよ、言葉通りの意味だって。それに今さら口説き文句もないだろ。」
今さら、とはすでに手に入れたつもりでいる者の余裕と傲慢さだ。
「誰かと間違ってるんじゃない?」
「そういうんじゃなくて……」
うっ、とうめいて男は果てた。男が多い被さってくると汗ばんだ体が胸とお腹にぺたりと張り付いた。顔を横に向けると3段式の白いカラーボックスに放り込まれたビデオテープが目に入る。ざっと見て10~15本くらいだろうか。趣味なのだろうバイク関係の2本(『SUPER GT 1996』『ドリフト天国』とある)を除いた他は全てアダルトビデオ。こういうのに無防備な客は好きだ。
「バイク乗ってヤってるビデオとかあったら欲しい?」
「え?」
男はあたしの目線の先を追って、ああと言った。
「それとこれとは違うんだ」
「バイクの後ろに乗せる女の子と乗っかる女は違うってことね」
男は答えなかった。不必要な気を使われるのは不愉快なだけだ。
「あんたあたしのこと前から知ってるような気がするって言ったわよね」
「言った」
「それたぶんあれよ」
首をかしげて男にカラーボックスを見るように促した。
「カバー・ガールの顔なんてどれも似たようになるわ。男が見たいと思う顔よ。」
そのあたしの言葉に男は想像しただろう。ーまさか、いやでもこいつなら、と。
ぼけっと動きを止めている男の下から這い出すと、手早く下着をつけ服を着た。男は体を起こしベッドに座り込んでのろのろと煙草とジッポーを手に取った。かち、かち、かち、と何度も押すがオイルが無いのかなかなか火は着かず、仕方がないのでガラステーブルの上に転がっているピンクの100円ライターで代わりに着けてやった。
「ねえ、悪いけどこれきりにして」
「え、なんで?」
「あたしレンタルビデオ屋嫌いなの」
通学カバンを拾い上げ、制服のスカートのしわを適当にはたいて直しながらあたしは振り返りもせず部屋を出た。駅に向かって歩きながら先に料金をもらっておいてよかったと思った。あの状況で代金を催促するなんて(そしてそれを馬鹿みたいに待っている間など)考えただけでみじめでぞっとする。
男はおそらく近々『ビデオワーム』へ行くだろう。そして同じような顔がずらりと並ぶ棚の中に名前も知らない女子中学生を探すのだろうが、残念ながらそれは絶対に見つからない。なぜなら店はもうとっくの昔に潰れてしまっているので。
『ビデオワーム』はアダルトビデオ専門店だった。駅前の高架下の細い路地の奥に店舗を構えていた。外からは店内の様子がまったくうかがえず、昼間からあからさまにいかがわしい雰囲気を醸し出していた。ロリ物に特化した品揃えはマニア向けで、そこへ入って行く客もどこか病的に見えた。
あたしが初めてそこへ連れて行かれたのは小学校2年の時だったと思う。薄暗く小汚い店には黒いビデオテープが乱雑に積まれていて、今にも崩れそうだな、と思ったらいきなり床に押し倒された。大人と子供のどうしようもない力の差。はじめのうちは泣き叫び暴れて抵抗したが、彼らにとってはそれが逆に劣情を煽るようだった。そして何度かの経験によってそれを知ったあたしはほどなく興味の対象から外された。
しかしそれを思いだして傷つくほどに今のあたしは純粋ではないし、そうであったころのことなどもう忘れてしまった。あたしにもそんな時があったならの話だが。
駅のゴミ箱の上に設置されている鏡の前で立ち止まって笑顔を作る。かつて『ビデオワーム』の棚でみた無数のカバー・ガールたちと重なったその完璧に美しい顔が実はあたしはまんざらでもない。