ICE AGE

 顔の下半分をマフラーに埋め、分厚い手袋をしていてもその上から冷気が突き刺してくるような冬の日だった。
 下校した滝口優一郎は自宅と反対の方向へ向かって歩いていた。のんびり者の優一郎にしては、やや足取りが速い。右手には一枚のはがきが握られている。毎週欠かさず購読している週刊漫画雑誌から切り取った懸賞はがきだ。これを投函しようとしているのだ。目的地は駅前に設置された丸型のポストだが、実は自宅への帰り道にもポストはある。ならばなぜわざわざ遠くのポストまで行く必要があるのか。
 ジンクスだ。優一郎はそのポストから懸賞に応募して、もう三度当選を勝ち取っている。一度目と二度目は当選した驚きと喜びを味わうだけで終わったのだが、三度同じことが続いた折には、単なる偶然ではなくポストと何か因果関係あるのではないかという考えに及んだ。元々優一郎が夢見がちなロマンティストであることを差し引いても、三度となればさすがにそう思ってもおかしくはないだろう。そういったわけで、今となっては懸賞への応募イコール駅前のポストというルールが優一郎の中に出来上がっている。
 駅前に到着した優一郎の息は軽く上がっており、歩みを止めた途端、背中に汗が滲んできた。寒いのに暑い妙な感覚だった。手ひらに浮かんだ汗のせいで、握りしめていたはがきがしんなりしている。
 ポストの前に立つと、優一郎ははがきを両手のひらで挟み込んで、神社や仏閣でやるように一礼した。そして最後のひと押しを心の中で唱えながら、投函口へはがきを押し込んだ。
 一仕事終えた充実感が優一郎を包んでいた。満足げな表情を浮かべて天を仰ぎ、小さく「よし」とひとりごちると、ゆっくりとした足取りで自宅へ向かって歩き出した。
 線路越しに歩くと、ほどなく駅舎が途切れて金網に変わる。視界が開けたので、優一郎は何気なく金網越しの景色に視線を流した。
 金網の向こうにはホームを望むことができる。無人駅のうらびれた寂しいホームだ。屋根もホーム幅の半分ほどしかなく、悪天候の日など、どこにいても容赦なく雨風にさらされる。中央部分に設置されている青いプラスチック製のベンチは経年劣化が激しく、青というよりもはや水色といった方が近いくらいの色に褪せてしまっている。
 そこに彼女がいた。
 優一郎と同じ学校の標準セーラー服を来た女子中学生、スカートの丈が異常に短く、真冬でも常に生脚と白いソックスの組み合わせを貫き、決してタイツやジャージなどを履いたりしない女の子、相馬光子がそこにぽつんと一人、脚を投げ出して座っていた。彼女を視認した優一郎の足が止まる。あいかわらず白いソックスだけの素足が寒々しい。全身のどこにも防寒具と呼べるようなものは見当たらない。むき出しの右手に何かが握られている。優一郎は彼女の手元に目を凝らした。
 それはアイスだった。ベンチと同じ色の、おそらくサイダー味だろうと思われるアイスキャンディーだった。
 こんな日に外でアイスなんて。優一郎は眉間に皺を寄せる。思わず全身が身震いした。しかし、光子は無表情で時折アイスを口に運んではほんのわずかずつ齧っていた。光子の目には一縷の光もなく、周りの風景や気温も含め、まるで永久凍土のように冷え切った世界がそこにあった。
 優一郎はその冷え冷えとした光景になぜか心臓を掴まれたような感覚を覚えた。なぜここにいるのか、なぜアイスを齧っているのか、なぜあたたかい格好をしないのか、そのどれにも優一郎は答えを出せないが、彼女にはきっと何か“そうしなければならない理由”があるに違いないと感じた。なぜなら、彼女のたたずまいには強い意志のようなものが漂っていたのだ。それがなんなのかは、やはり見当もつかないのだが。
 おもむろに光子が立ち上がった。電車がやってくるようだ。アイスは光子の右手に握られている。まだ三分の一も減っていない。いったいどうするのだろう?と優一郎がアイスの処遇を慮っていると、光子はあっけなくアイスを地面に捨てた。その動きには迷いもためらいも一切ないように見えた。そして、ベンチに置いてあったバッグを掴むと、地面に落としたアイスを見遣ることもなく、高松方面行きの電車に乗り込んで消えた。
 優一郎は光子を乗せた電車を姿が見えなくなるまで見送り、そのあともしばらくベンチのそばに残されたアイスを見ていた。アイスは落下の衝撃で角が欠けて周りに飛び散っているが、全体としてはほぼ落とされた時の姿のままそこにあった。ただ、飛び散った小さな欠片だけが、ゆっくりと溶けて染みになりつつあった。
 かわいそうなアイスはそのうちに駅員が気づいて撤去されるだろう。気温が上がれば染みもそのうち消えるだろう。しかし、その日目にした光子の姿は優一郎の記憶に深く深く染み付いていつまでも消えることはなかった。

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