いけすかない
朝の店には行き場を失った酒と煙草の匂いが充満し、臭い。ヤニと油で半端なく目詰まりを起こしている換気扇を弱で回すと、これまたいつから掃除をしていないんだという汚れ切ったガスコンロにアルミ製のヤカンをかける。奥の部屋では仕事を終えた父親がようやく眠りについたころだと思うから起こさないように静かに。カウンター正面の壁に掛けられている外国製の姿見の鏡は、お世辞にもセンスが良いとは言えないこの店の中で、あたしが唯一気に入っているもの。ガウディの建築物のような有機的なフォルムと鏡の周囲に施された、おそらく神話をモチーフにしたのだろうデコラティブな飾り枠がとっても素敵だから。わざわざアパートから毎朝ここへ来るのもこの鏡が見たいからだ。父親いわく開店祝いにもらったものらしいんだけど、誰にもらったのかとか詳しく追求すると『まあ、うん、もらったんだよ』と言葉を濁すのよね。それがあまりにかたくななので、きっと父親にはこの鏡にまつわる過去があったに違いないと踏んでいる。そういう《わけあり感》って大人っぽくてなんかカッコいいじゃない?
鏡に映った自分の姿にうっとりと見とれているとヤカンがピーと鳴って、慌てて止めに走る。起こしちゃったと思ってそっと奥を覗いたけど、父親はぴくりともしていなかった。
カウンターの丸椅子に腰掛けるとお決まりのレコードに針を落とした。マグカップで作ったインスタントコーヒーを一口すするといつものように引き出しの中からお気に入りのヴァIジニア・スリム・メンソールを一本取り出し、くわえようとして、やめた。今日一日くらいは清らかな体でいようか、なんて思ったのはまあ単なる気まぐれだったんだけど。
しかし出かけ際、上着を羽織った自分の姿を鏡に見つけて足を止める。気が滅入るからあまり考えないようにしてたんだけど、これってホントにカラスか、じゃなきゃ喪服みたいよね。黒って陰気くさくて嫌い。こんなものを三年間も着続けなくてはならないなんてまったくうんざりしちゃうわ。
中庭に立てられた掲示板でさっと自分のクラスを確認すると、他の生徒たち盛り上がりを後目にひとり校庭のベンチに移動した。煙草も本もレコードも語り合う恋人どころか友達のひとりもいない退屈なこの濫の中で、あたしは時間を持て余してしまう。
内ポケットから買ったばかりのコンパクトミラ-を取り出し、念入りに整えてきたヘアスタイルをチェックする。うん、カンペキ、と満足してミラーをポケットにしまうと、背後で自分の名前が口にされているのに気付いた。
「月岡ってあのオカマ? うわ、俺、一緒だよ」
「商店街のゲイバーの息子だろ」
「オカマでも子供作れんの?」
「知らね-」
慣れたこととは言え全く傷つかないわけじゃない。好きでやってるんだろと言われればそうなんだけど、うしろめたい気持ちがないわけじゃない。この国で自分のような生き方をすることがいかに大変かなど父親を見ていれば嫌でもわかってるけど、それでもこの道を選ぶのはこれが自分にとって自然なことだからなの。
校内放送で講堂へ集まるよう号令がかかると生徒たちは皆一様に笑顔で次々と校舎へ消えて行った。大方の生徒が姿を消したのを見てようやくあたしは重い腰を上げる。
中庭の途中で緑色の手帳を拾った。真新しいそれは自分が持っているのと同じ今年入学した学生の生徒手帳で、クラスと名前が書いてあるはずの裏表紙をめくってみると、そこには一年、三村信史と。組はあとで書き込むつもりだったのか空柵のまま。顔写真が付いていないのが残念。好みのタイプなら直接届けてあげるのにな。タイプじゃなかったら? そんなのポイよ、ポイ。とまあそれは冗談だけど、どうせ通り道だし職員室に持って行ってあげましょうね。意外とあたしって親切なのよ。男の子には。
ノックしようと職員室の扉の前に立つと、中から教師たちの談笑が聞こえてきた。別に盗み聞きするつもりはなかったんだけど。
「なんだ、今年はなんかおかしなのがいるなぁ」
「え? ああ、月岡」
「これ例のゲイバーのだろ? しかしあの店よく経営できてるよな。こんな田舎町で客なんかいるのか」
「まあ、コネクションなんかもあるんじゃないですかねえ。ひとところでは軍御用達なんて噂もありますから。軍なんてのは男所帯ですからね。そっちの趣味も多いって言うし、意外と便利に使われてるんじゃないですか」
結局入学式には出なかった。職員室が空になるのを見計らって忍び込み、屋上の鍵を盗んだ。
朝立てた禁煙宣言は二時間であっけなく破られた。匂いを咎められるのもめんどうなので式が終わって人がいなくなったら下りようと校庭の桜がひらひらと散るのを眺めながら煙を吐くとそれは頭上の雲の形に似た。思ったよりもここは空に近い。
教師たちの言ったことはあながち間違いじゃない。現に軍関係者が利用することもある。でもそれのどこがいけないっていうの?《善良な一般市民》なんて匿名の隠れ蓑の裏では興味本位のやじ馬根性丸出しの奴らより、顔も名前も出して商売してるうちの父親のほうがよっぽど人間として正しいじゃない。身内びいきなんかじゃなく・一度そいつらの流した根も葉もない誹誘中傷を受けて客足が途絶え、あたしの小学校の給食費も払えなくなっていた時、それでも父親はお店ではそんなそぶりを微塵も見せずいつも通りに振る舞っていた。それなのに、一番信用していた客にかなりの額の飲み代を踏み倒されて借金を重ねた末「これは本当に店を昼むしかないかもしれないな」と笑いながら言ったのを聞いてあたしは密かに決心した。正しくやって馬鹿を見るぐらいなら、卑怯でも汚くてもとことん上手く立ち回って最終的に自分が笑ってやると。
それからは学校に必要な物はほとんど万引きで手に入れた。慣れてくればそれ以外の物もかたっぱしから盗んでやった。たぶんそのことは父親も知っている。でも咎められたことは一度もない。誰に教わったわけでもないのに最初から驚くほど上手くいったのは、きっとこれが生きるためにあたしに与られた才能なんだろう。
母親の記憶はない。正直なところ、父がゲイなのか商売上そう装っているのかは今でも本当にわからない。親子で同じ家に住んでいるのにおかしいじゃないか、と思われるかもしれないけど、家族つたって何でも分かり合えるわけじゃないし、むしろ知らないことのほうが多いかもしれないとすらあたしは思っている。父親があたしの何をどれだけ知っているかと考えると、はなはだ疑問だ。まあ、知っているけど知らないふりをしているのかもしれないけど(可能性としてはそっちのほうが高い)、それならそれでかまわない。
「LA VIE EN……LA VIE EN ROSE……」
真面目にやったからって良いことがあるとは限らないのよね。小卒じゃいくらなんでも後々マズいだろうから中学くらいは出ようと思ったけど、三年間ここで息をする側信をあたしはすでに失ってしまっていた。
結局、朝起きて気が向いたら学校へ行くという生活になった。体育がある日とかテストのある日なんかは赦極的に休んだ。休んだところで友達がプリントを届けてくれたり、先生が心配して訪ねて来てくれたりすることはないので気は楽だ。ただ、このまま出席数が足りなかったら留年かなあ、でも中学に留年ってあるのかしら、なんて他人事のように思っていた。
ある朝、いつもと同じように店のカウンターで煙草をくわえながらレコードをかけようとしていたら、めずらしく父親が起きて来てあたしの横に座った。
「おはよう、めずらしいじゃない」
「うん、目が覚めちゃって」
「コーヒー飲む? インスタントだけど」
「ああ、もらおうかな」
カウンターの内側に回って洗い桶の中からマグカップをつまみ出す。洗ったばかりのカップにはまだ水滴がついていて、あたしはダスターでそれを丁寧に拭き取り、コーヒーを作る。
「どうだ、学校は」
「どうってこともないわよ・予想通りって感じね」
「楽しくないか」
「窮屈だわ」
そう言ってコーヒーの入ったカップを父親の目の前に置く。ゆるゆると手をのばして父親はこくりと一口だけ飲んだ。
「おまえ将来は俺のかわりにそこに立つのか?」
「急に何よ」
本音を言えばあたしはそんなことごめんだった。こんな田舎の寂れたゲイバーで、世間の目を気にしながら細々と生きていくのなんて。でもそれを父親に言えるはずもなく。
「まだわかんないわ、そんな先のこと」
「そうか。なら学校へ行け。楽しくなくても」
「どうしたのよ、パパ、突然」
笑ってごまかそうとしたけど父親は真顔で、でもあたしの目は見ずに言った。
「突然じゃない。ずっと考えてたんだ。おまえは賢い子だからパパの言ってる意味がわかるだろう?」
マグカップを持って奥の部屋に戻って行った父親の背中を見ながら、手持ち無沙汰のあたしはカウンターに瞳かれたレコードに針を落とした。
一時間目の休み時間に教室へ行くと予想通りクラスメイトたちの視線が集中した。それを縫って席に向かい、椅子に浅く腰柵けると足を投げ出し座る。この時点でもうすでに教室を飛び出したい気分になっていたが、父親の顔を思い浮かべてなんとか思いとどまった。
楽しいことと締麗なことだけ感じて生きていきたい。それがあたしの望み。ささやかな望みだと思うんだけどな・
昼休みになったらすぐにスペアキーを使って屋上に出た。屋上は広々として明るく、日向の匂いがした。教室と同じ学校という場所なのにここならこんなにも息がしやすい。鍵をかけたから誰も上がってこられないはず。のんびり煙草をふかそう。イヤなことは全部忘れて。
ライターを取り出そうと内ポケットに手を入れるとふと四角いものが指に当たった。
「あら、忘れてたわ」
生徒手帳だった。自分のものと入学式の日に拾ったものと二冊ある。たしか名前は、と裏表紙をめくる。
「そうそう、三村信史くんね。確かうちのクラスにはいなかったからB組かC組……」
まだ見ぬ手帳の持ち主を想像しながら煙草に火をつけたところで、がちゃりと背後の扉が開く音が聞こえた。えっ、と思って振り返るとノブに手をかけた状態で少年が「あ」という顔をして一歩を踏み出すのをためらっていた。たぶん向こうも先客がいるとは思っていなかったんだと思う。でもここへ来てる時点で共犯ね。鍵は盗まなければ絶対に手に入らないんだもの。
「入れば? 何も取って喰やしないわよ・共犯者同士仲良くしましょう」
なにやら警戒しているのを軽く促すと、少年はすたすたとこちらへ向かって歩いて来た。一メートルほどの距離を空けてあたしの左側にポジションを定めると、手すりに背を預けてぺたりと地べたに座り込んだ。
「吸う?」
「煙草は吸わない」
「あっそ」
細い鼻筋の通った横顔は端正で、すっと斜め上に伸びた眉はそれほど手入れをしているようには見えない。前髪を整髪料で持ち上げた短い黒髪、陽の光を受けて金色に輝く産毛にまだ幼さが浮かぶ。好みの顔だ。薄い唇に思わずキスをしたくなる。
「鍵、よく盗めたわね』
器用に携帯電話をいじっている少年に声をかける。携帯電話を持ってるなんてけつこうお金持ちの子なのかしら。
「おまえこそ入学式の時からここに出入りしてただろ」
少年は携帯電話の画面から目を離さず返した。
「あら、よく知ってるじゃない」
「入学式のあと校庭からここを見たんだ。そしたら立ち入り禁止になってるはずの屋上に誰かいるじゃないか。それで思いついた」
「めざといわね」
「人聞きが悪いな。勘がいいって言ってくれよ」
なによ、人なんかいないじゃない、と思いながらあたしは初めてまともに同級生と話をしていることに気付いた。
「それ、ピアス?」
左耳に光るものを指差し訪ねると少年はすこし間を置いて答えた。
「そう」
「いいわね、あたしも開けたいなぁ」
「簡単だよ」
「自分でやったの?」
「まあね」
「教えてよ、今度」
「いいけど……」
少し迷惑そうに答える。
「あなた名前は?」
「・…:三村信史」
風の音にかき消されてしまいそうな小さな声ではあったが、たしかにそう言った。
「クラスは?」
「C組」
煙草の煙が目のすぐ前を通って、火が指元まで来ていることに気付く。慌てて携帯灰皿を取り出して灰を落とすと、三村くんはその様子を横目でちらりと見て「マナーはちゃんとしてんだな」と笑った。
「ポイ捨てはスマートじゃないもの」
やっと振り向いてくれた彼の顔にはすごく締腿な目がふたつ。あたしはどきりとする。やっぱりこの顔、すごく、好き。
「おまえ月岡彰だろ」
「え?」
「有名人だからな」
そう言って三村くんは携帯電話をポケットにしまうと不敵な笑みを浮かべて立ち上がり、おしりについたコンクリートの粉をさっと払った。
「こうしてお話してくれるってことは脈がないわけじゃないと見ていいのかしら」
「あ、悪いけど俺、女の子しか興味ないんだ」
「あら、みんな最初はそう言うのよ」
わざと意味深に、ふふ、と笑ってみせると三村くんは露骨に嫌そうな顔をした。そして首をかしげてやれやれといつたふうにアクションすると、右手を頭の横でさっと振り填爽と扉の向こうに消えた
手すりにもたれて二本目の煙草に火をつけ、しばらくすると校舎から出てくる三村くんが見えた。バスケットボールを持って校庭で待っていた同級生とおぼしき小柄な少年の肩を抱えると、そのまま中庭の方へ歩いて行った。
「ずいぶんとまあスカした男だこと」
だけど彼は知っていた。自分が悪名高きオカマ中学生、月岡彰であることを。そう、知っていた
一年C組、三村信史。あたしの暗黒の中学校生活に差した一筋の希望の光。手の中に残された緑色のジョーカーはさてどう使おうかしら。
大丈夫よ、三村くん。誰かを好きになるのなんてほんと一瞬なんだから。