カナリアと少年
傷は男の勲章、なんて言うけど俺は違うと思う。本当に強いやつには傷なんかつかない。それは喧嘩の翌日にはっきりと証明される。
「あらあ、充ちゃん。またそんなに傷つくっちゃってぇ」
「その呼び方やめろっつってんだる」
「なによ、負けたからって八つ当たりしないでよれ」
「負けてねえ! 負けるわけないだろ……、ボスがいたんだから……」
言葉尻を濁す俺を横目で見ながらヅキはわざとらしく口に両手をあててとぼけた表情を作った。ただでさえ機嫌の良くないところにきて、それがさらに癪に障る。チッと舌打ちして晩みつけるとヅキは「きゃあこわ-い」と気色の悪い声を上げて逃げた。まあよくもあの面で『きゃあ』なんて言えるもんだな。クソッ。
先日の席替えでずいぶんと離れてしまったボスを目線だけでちらりと窺う。まっすぐ背筋を伸ばした優雅な身のこなしは相変わらずで、あちこちの痛みにもんどりうっている無様な自分とは天と地の差だ。
しかしなぜこんなに違うのだろう。いや、元々住む世界が違うことはわかっている。それにしても違いすぎる。体格的には劣っていないし基礎体力もそれほど違うとは思えない。だからつい惨い望みを。無謀とは知りつつ少しでもその距離を埋められたら、と。
「あの、ボス」
放課後、帰り支度をしているボスに声をかける。
「今からちょっと時間あるかな」
「なんだ?」
「いや、ちょっとここでは……」
「今日は特に予定がないからかまわないが」
「あっ、じゃあ」
オーケイの返事に慌てて自分の鞄を取りに走る。
「行こう」
半ば強引にボスの肩を押して教室を出た。ヅキなんかに見つかるとまたいろいろとめんどうだからな。
「え-っと」
饗銭箱前の石段に腰をかけているボスはさっきからはっきりしない俺をじっと待ってくれている。うろうろと歩き回ってはいつまでも二の次を告げないでいると、どこからともなく野良猫がやってきてボスの隣にしやがんみこんだ。それを見て俺の緊張がいくぶんか和らぐ。
「あのさ、俺に晴一嘩の仕方教えてもらえないかな?」
「かまわないが」
あっさり返されて拍子抜けする。足元の猫を撫でながらボスは静かに語り出した。
「特定のルールが存在しない晴一嘩というシチュエーションにおいてはTPOに合わせて戦い方を柔軟に変える必要がある。攻撃パターンを固定してしまうと不利だ」
てっきり実践技を教えてくれるものだと思っていた俺はぽかんと口を開けた馬鹿面で首を前に出し、「はあ」とあいづちを打った。
「おまえの戦い方を見ているとボクシング系の打撃ばかりだ。しかも急所を外して撃っている。あれでは相手はいつまでたっても倒れないぞ」
「ああ……」
「勝つために重要なのは相手を壊すことを鋳曙しないことだ」
そう言ってボスが立ち上がると猫が名残惜しそうににゃあと鳴いた。
「……それって、殺すつもりでやるってこと?」
「そうだ」
たしかにボクシングスタイルにこだわってる自分とは違って、ボスの戦い方は時に空手、時にキックボクシングと様々だ。自分から武器を使ったことは一度もないが、ある時相手が取り出したバタフライナイフを奪ってためらうことなく喉元に切りつけたことがあった。見たこともない量の血が傷口から噴水のようにほとばしり、それを見た相手側のチンピラは一気に戦意を喪失し青ざめた顔で救急車を呼んでいた。そのあとそいつがどうなったかは知らない。
「えーと、つまりそれくらいの気持ちでやれ、ってことだよね」
「まあ、そうだ」
「わ、わかった。次にやるときはそうするよ。で、あとついでになんか実践で使える技とか教えてもらえるとうれしいんだけど……」
「わかった」
ボスは学生服の上着を脱ぎ、猫の上にばさりと落とした。猫はみやあと一声鳴いて上蒜の下から這い出し、そのまま社の襲手に逃げて行った。
「どんなに鍛えている奴でも喉は急所だ」
「喉?」
「開甲拳で咽頭へ一盤を入れろ。後ろ足に璽心をかけて体を捻りながら思い切り踏み込んだら、間髪入れずこめかみのあたりへ肘打ちを入れる。これでたいていの奴は地面に倒れる。そうしたら後頭部へ鍾落としを食らわせればいい。足りなければ頭部への打撃を繰り返せ」
想像するだけで鳥肌が立ちそうな恐ろしい実践術をボスは淡々と口にし、シャドーで手本を見せてみせた。俺は自分で申し出た手前、中学生の喧嘩でそれはちょっとやりすぎなんじや、と言うこともできず、とりあえず礼を言ってそのⅢは引き上げた。
うっかり寝坊して学校をサボった日の午後、めずらしいことにファミリー全員が出席しているせいで俺は一日中暇を持て余していた。仕方なくいきつけのゲーセンでうだうだしていたが、さすがに半日もいれば飽きる。
腕に巻き付いた一張羅のデジタル時計を見ると午後四時半を過ぎたところ。学校はもう終わっているだろう。俺はゲーセンを出てすぐそばの細い裏道に入る。家まで帰るには表通りを行くよりこっちのほうが近い。
ふいに路地の向こうで「やめてください」と女の声がした。この道を通る人間などほとんどいないはずだが、と首を捻りながら道を行くと数人の学ランが円陣を組んでいるのが見えた。体と体の隙間からセーラー服姿の小柄な女の姿がちらりちらりと覗く。どうやら絡まれているらしい。目を凝らして近づいて行くと制服とリボンの色でその女がうちの生徒だと分かった。さて、どうしようか。相手は三人。高校生ではなさそうだが。
「おい、やめるよ。三人がかりでみつともねえ」
「ああ?」
学ランが三体、一斉に振り返りこちらを見た。どれも見覚えのない顔だ。三人とも金髪で一人は歯が何本かと眉毛がない。典型的なヤンキー面ってやつだ。
「沼井くん……」
涙目でそう弱々しくつぶやいたのが同じクラスの金井泉だったことは少々意外だった。町議の娘である金井は筋金入りのお嬢様でこんなところに寄り付くタイプではない。仮にあったとしてもその理由は思いつかなかった。
「やめろって言ったんだよ」
「誰だ、てめえ?」
リーダー格らしき歯抜けがこっちに近づいて来てガンを飛ばす。身長はあちらが三センチほど上。歯抜けと独特の口臭からして、シンナーをやってることは明らかだった。しかし今時シンナーとはずいぶんクラシックな不良もいたもんだと、俺はわざとらしい溜め息をついて。
「悪いのは顔だけじゃないみたいだな」
「なんだと?」
「日本語が通じないんじゃしょうがないつってんだよ。歯抜け面」
自信があったわけじゃない。ただ見過ごせなかっただけだ。仲間を呼びに行っている時間なんか当然なかった。
俺は他の二人には目もくれず、頭の歯抜け面だけを集中攻撃した。見た所他の二人はただの腰巾着だ。こいつを潰せば残りはかかってこないはず、そう踏んで。
目線を下ろすと痩せた喉仏が目に入った。先日のボスのレクチャーを思い出す。
――開甲拳で咽頭へ一撃。
コンクリートの地面をしっかりと踏みしめて右手を開き、第二関節から折り曲げる。親指を人差し指の上に乗せて拳を作ると、相手が飛び込んでくるタイミングを見計らって喉元へ狙いを定め、撃った。ごりっとした感触が伝わり、すかさず左の肘で頭部を仕留めようとしたその時、目線の先に金井の姿が飛び込んで来た。
「金井! どけ!」
叫んだが、恐怖に身がすくんでしまっているのか金井は地面に両手をついた姿勢のままそこを動かなかった。このままいけば金井が巻き添えを食う。俺は一瞬のうちに作戦を変えた。相手に近い方の足を十五センチほど上げ、そのまま膝頭に打ち込むと歯抜けはぐらりと崩れ落ちる……予定だった。
「沼井くん!」
残りの二人がいつの間にか木片を手にして間近に迫ってきていたのだ。額の端をかすめた木片はわずかばかりの肉を削ぎ取って行った。喧嘩の般中はアドレナリンが放出されているせいかこれくらいの傷ならほとんど痛みは感じない。金井の叫び声のおかげで間一髪逃れられたが、あれをまともにくらっていたらアウトだった。片足でバランスを取っていた俺は体勢を崩しかけたが、左手を地面につき持ちこたえるとなんとか転ばずにすんだ。
――勝つために重要なのは相手を壊すことを躊躇しないことだ。
頭の中でボスの声がした。
そう、そうだったよな、ボス。
体勢を立て直し、歯抜け目がけて走る。大振りのパンチは俺の頭上をかすめ、しゃがみこんだ姿勢から下腹に諏身の一撃を食らわせた。みぞおちにクリーンヒットした感触にぐっと拳を握ると、歯抜けはごぼっと奇妙な音を立てて後ろへ倒れた。
「前原さん!」
腰巾着二人が同時に叫んで歯抜け、もとい前原の元へ駆け寄った。その隙に俺は金井の腕掴んで立ち上がらせる。
「走るぞ!」
三百メートルほど走って学校近くの公園まで来た。ここまで来ればさすがに大丈夫だろう。
「大丈夫か?」
「う、うん」
言葉とは裏腹に金井の足は震え、息は上がり切っている。
「ちょっと待ってるよ」
金井をベンチに座らせると俺は自動販売機を探しに公園を出た。サンガリアのローカル自販機しかなかったが背に腹はってやつだ。とりあえずスポーツドリンクとお茶を一本ずつ買う。あまり売れていないのか、缶は驚くほど冷えていた。
公園に戻ると金井はベンチにいなかった。あたりを見回すと水飲み場から小走りで走ってくる金井の姿が目に入った。
「なにやってんだ」
「座って、沼井くん」
言われるがままに腰を下ろすと金井が体を近づけてきた。予想外の行動に俺は一瞬身じろぎ、身体を引こうとしたら金井に怒られた。
「だめ、じっとして。血、すごいのよ。自分じゃ見えてないだろうけど」
濡らしたハンカチを額に当て、金井は言った。
「ああ」
「ごめんね、あたしのせいで」
「別に金井のせいじゃない。あいつらのせいだ」
「やさしいのね」
札付きの不良をつかまえて「やさしい」だなんてどんな冗談かと思った。あ、もしかしてからかわれてるのか、俺?
「いいよ、思ってもないこと言わなくても。恩に蒲せるつもりないし」
なんとなく金井と目を合わせられなくて目線を逸らした。金井は小さく「ほんとうよ」と言った。
「ありがとう、もういいよ。あとはウチに帰って自分でやるから」
「そう?」
「これ、どっちでも好きな方」
さっき買った飲み物を差し出すと金井は迷わずお茶を選んだ。
「ありがとう」
「いや」
そのあとしばらく二人で黙って飲んだ。俺のスポーツドリンクが先に無くなって、缶を捨てにゴミ箱に向かう。
缶を捨ててベンチに戻ると、金井が両手を腹のあたりに当ててうつむいているのが見えた。気付かなかった、まさか怪我でもしたのだろうか?
「どうした? どこか痛むのか?」
よっぽどおかしな顔をしていたのか、俺の問いかけに金井はきょとんと不思議そうな顔を返す。うふふ、と笑って手のひらを開いてみせるとそこには。
「カナリヤ。怪我をしてるのはこの子なの」
「え? カナリヤ?」
金井の手の中には小鳥がいた。黄色い体を丸め、黒い瞳をじっとつぶって。
「路地にこの子がいて、飛べずにいたの。それで」
ああ、そういうことだったか。怪我をした小鳥を助けようとして、危険も顧みずに。
「ごめんね」
「だから謝んないでいいって」
「でもこんなひどい怪我」
「こんなの怪我のうちに……」
言いながらなぜか俺は可笑しくなってきた。そう、こんなもの怪我のうちに入らない。毎日俺が受けている不名誉の負傷に比べればな。
しかしこれをどう言えばいいのか。頭の中でぐるぐると言葉を探していて、あ、と思いついた。
「いいんだ。だってほら、傷は男の勲章だって言うだる?」
そう言って俺が茶化すと金井はちょっと照れくさそうに顔をほころばせた。自分で言っておいてなんだけど、俺ってけっこう調子のいい奴だなと思った。
明日学校へ行ったら、めざといヅキあたりが絶対この傷のことを聞いてくるに違いない。「また負けたの~?」なんて。そうしたらこう答えてやろう。「カナリヤを助けようとしたんだ」なんて。殴られすぎてついに頭でもおかしくなったんじゃないかと思われるだろうか。
でもこんな傷ならたまには付くのも悪くないと思ったのは嘘じゃない。たぶんな。