蚊帳
夏は夜。花火と言うから当然打ち上げ花火だと思ってた。去年は中学に入って初めて付き合った女の子と一緒に花火大会に行ったし、今年もすでに予約が入ってる。(それが去年と同じ子じゃないってのはまあご愛嬌)七原との約束は「慈恵館」の前に7時。Tシャツにハーフパンツ、サンダルという至ってラフな格好で出かけた。ポケットに携帯と財布だけを入れて。
約束より5分ほど早かったが、まあいいだろう。だってここが家なんだから、七原の。
しばらく待ったが、七原は現れなかった。7時から5分待った。それでも七原は姿を見せなかった。
こう見えて俺は時間や約束にうるさい。人を待たせるのも待つのも好きじゃない。携帯で連絡を取ろかと思ったが七原は携帯を持ってないことに気付く。あきらめて仕方なく古びた扉に手をかけた。
タイル敷きの玄関には小さな靴がばらばらと散らばっている。おそらくここの子供達のものだろう。
その中に見慣れたケッズのスニーカーがある。右のかかとの内側が破れ、ほつれて糸が出ている。それを見て、当たり前だがあいつはここに住んでいるんだなとあらためて思った。
奥の部屋から大勢の人の気配がするのだが、はて、どうしようかと思っていた矢先、部屋から女の人が出てきた。20代後半か30代前半くらいだろうか、手に四角い盆を持っている。きれいな女の人だった。
「もしかして、三村、くん?」
「え。あ、はい」
「やっぱり。すぐわかったわ」
微笑むと両頬にえくぼができた。
「秋也なら奥にいるわよ。どうぞ入ってちょうだい」
そう言って奥の部屋へ促した。俺は軽く会釈をして靴を脱いだ。
たたき台を上がると床のひんやりとした感触が足の裏に伝わる。知らない匂い、知らない人、知らない感触。よその家に来た時の新鮮でどこかこころもとない感じ。
開けっ放しの部屋には先ほどの靴の主たちががやがやと走り回っていた。その中心に七原はいた。まわりに小さな子供たちがうじゃうじゃとまとわりついている。その奥には国信もいて、手持ち花火を振り回す子供になにやら注意をしているようだった。
「よう」
俺を見つけると七原は右手を掲げてそう言った。長めの髪をうしろでひとつにくくっている。それに反応して国信がちらと俺のほうを見やった。目が合ったので七原がしたように手で“よう”と挨拶をした。国信もはにかみながら同じように返した。
「こういうことだとはな」
俺は七原の近くにあぐらをかいて座った。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてなかったと思うけど?」
「あはあ、そうか。ごめんごめん」
やりとりをしながら七原は手元の作業に夢中だ。
「何やってんの?」
「ん、蚊帳」
「蚊帳ぁ? いまどき?」
「いやあクーラー代も馬鹿になんないじゃん?それに子供ってすぐ風邪ひくからなるべくつけないほうがいいんだ。」
どうやら破れた蚊帳を補修しようとしているらしい。が、もたもたとした手つきは全くおぼつかず、しばらく見てるといらいらしてきた。
「ちょ、かしてみ」
言って俺は七原の手から蚊帳と針を取り上げ、ささっと縫い上げてみせた。この手先の器用さはたぶん叔父ゆずりだ。(と、俺は思いたい。実際うちの父親も母親も全く器用さというものとは無縁の人間なので。)
「おにいちゃんすごーい」
七原の隣にへばりついていた女の子が俺のそばに移動してきた。小学校1、2年といったところだろうか。目を輝かせて俺を見上げている。
「おい、いくらなんでも年下すぎないか、三村」
「なんだ、負け惜しみか」
七原は悔しそうな顔で“ふん”と言った。ありえないぐらいベタなリアクションに俺は思わず失笑した。
水の撒かれた庭はしっとりとして土の色が濃い。
さっきそばに来た女の子ー沙織なのでさっちゃんーはあれからずっと俺にへばりついている。そういえば郁美も小さいときはこんなふうにずっとくっついてたっけな。
「モテるな、三村」
国信が近づいてきて切り分けられたスイカが乗っかった皿を突き出した。俺はそこから一切れもらった。塩は遠慮した。
「結構、守備範囲広いみたいね」
「うらやましいことで」
国信とこうして話すのはめずらしい。もしかしたら初めてかもしれない。七原と国信が一緒にいるときは俺は七原に声をかけないし、国信が単品で俺に声をかけてくることはない。なぜ、と言われたら空気、だろうか。俺が入っていけないと思ってしまう濃密な空気。それは長い時間をかけて編み上げられた目の細かい蚊帳のようだ。
「三村って子供とか嫌いかと思ってた」
「冷たそうに見える?」
「いや、まあ…、そういうわけじゃないけど」
「それ、そうだって言ってるのと同じだぜ」
「そういう言い方、あいかわらずだな」
「ああ、ついな。気分を悪くしたならあやまるよ」
「いや、いいんだ。俺、前から一度三村と話してみたかったし」
「へえ。俺はてっきり避けられてるのかと思ってたけど」
「なんで?」
「なんとなく」
嘘だった。理由ははっきりしていたが、それをはっきり言ってしまえば国信がどう思うかくらいわかる。俺だってデリカシーってもんがないわけじゃあないからな。
「それは誤解だ。誤解だな」
国信は“誤解だ”と二度繰り返した。
「で?」
「え? 何?」
「話、あんだろ。俺に」
はい、ビンゴ。正直半分ハッタリだったんだけど国信の表情がそれを確信的にした。
「かなわないなぁ」
右の眉を上げて俺は答えた。
「さっちゃん、悪いけどちょっと秋也にいちゃんのとこ行っててくれるかな」
えー、とさっちゃんはむずがったが、国信がやさしく諭すと、わかったーと言って七原のそばへかけて行った。七原は走りよってきたさっちゃんを抱きとめて抱え上げると、俺たちの方をちらりと一瞥した。しかし笑うことも合図を送ることもせず、さっちゃんを降ろすとそのまままた子供達と花火に興じていった。
二人して縁側に腰掛けた。俺が黙っていると、国信が話の糸口を探しているのがわかったので口火を切ってやった。
「どうした?悩み事か」
「悩みってほどじゃないんだけど」
「好きな女の子でもできたか」
「それならおまえには相談しないな」
「言ってくれるね。まあ、それは賢明な判断だとは思う」
そうおどけて言うと国信は破顔した。実に中学生らしい(って俺が言うのもなんだけど)いい笑顔だった。
「おまえは頭もいいし、運動もできるし、女の子にもモテる」
「今度はほめ殺しですか」
「や、真面目に言ってる」
「それはどうも」
「秋也はここでいつもおまえの話をしてる。あいつはすごいやつだって。一番のライバルだって」
ああ、と思った。ああ、そういうことか。
「七原はそういうの言っちゃうほうだからなぁ」
「俺、秋也のこと一番知ってるつもりだけど、だけど、知ってるだけなんだ。それだけなんだ」
「結構なことじゃないか」
「ずっと一緒にいたから当然だ。ほんとはそばにいるべきなのは俺じゃなくて、たとえばおま……」
俺は人差し指を国信の口に当てて、言葉を遮った。
「ファーストキスだったかな?」
国信の唇から指を離してそれを自分の唇にあてた。国信は顔を真っ赤にした。唇はやわらかかったが、それはまあいい。
「三村…俺、真面目に話してるんだぞ」
「うん、分かってる」
国信は言葉を失ってうつむいた。遠目に見ると俺がいじめてるみたいに見えたかもしれない。
「七原さ、俺にもおんなじこと言ってるんだぜ。おまえのこと」
「え」
「“あいつは俺にとって特別なんだ。うまく言えないけど他にはいない。あいつしか知らない俺がいるし、俺しか知らないあいつがいる。自分を自分以上に知ってくれてるやつがいるってすげえことだと思わねぇ?”ってな」
俺の話にじっと聞き入っている国信の目に光るものが見えたような気がしたのは俺の勝手な感傷だっただろうか。
「なあ、国信。時間ってさ、勝手に積み重なっていくように感じるけど、お互いに積み重ねていくもんなんだよ」
多少自分に言い聞かせるような言い方だったかもしれない。たぶん国信には伝わらなかったと思うけど。
「さ、無料相談会終了。ここからは有料になりますけど、どうなさいます?」
立ち上がって手をオーバーに広げて言ってみた。
「何で払えばいい?」
「んー、体かな?」
ははと国信は目を閉じて笑った。
「考えとくよ」
スイカでべたべたになった手からは甘ったるい匂いがした。濡れタオルで拭くとべたべた感はなくなったが、匂いはかすかに残った。遠くでさっちゃんの持つ線香花火の火がぽたりと落ちるのが見えた。
なんだかちょっと胸が切ないのはとりあえず夏のせいにしとこう。
夏の夜に花火とロマンティストが三人じゃあ、ちょっと甘ったるすぎるってもんだ。