口の中の傷
うぶ毛の手入れが行き届いたなめらかな桃色の頬が盛り上がってはへこんでを繰り返している。さっき食べたクリスマスチキンの切れ端が奥歯にはさまっているのだ。それを舌で取ろうとして光子は意地になっている。「痛っ……」
執拗に切れ端を追ううちに頬の肉を噛んでしまった。ピリッとした痛みが走り、じわじわとあたたかいものがにじむ感触が広がる。舌で舐めると鉄の味がした。血の。傷は右奥の頬の上部、なぜか昔から何度も噛んでしまう場所で、その部分だけ他と違うざらりとした感触を持っているのがわかる。噛むたびに口を開けて鏡に映してみるのだが、見え辛い位置にあるため実際に目で確認したことはない。
男はそんな光子ようすなどまったく耳に入っていないふうで、一心不乱に光子の足を愛撫している。
口の端に奇妙な笑みをたたえながら、光子はすごぶる不機嫌だった。
というのも“これ”はもともと好美の客だったのだ。好美にとって4人目の客になるはずだった。しかし今朝好美に話をもちかけると風邪を引いて熱があるからパスしたいと言い出し、なんとか説得しようとしたのだが好美は頑に拒んだ。そして仕方なく光子が代わりについたのだった。美容院の予約をキャンセルしてまでこの仕事に穴をあけなかったのは光子をひいきにしてくれている常連客の紹介ということもあったが、売春とはいえ客商売は信用がなにより大切だということを光子は経験上知っていたからだ。
室内とはいえ、この季節に裸でいても寒さを感じないほどに効かせすぎた空調のせいで室内はどんよりと暖かく澱んでいる。ホテルの(ビジネスホテルでもラブホテルでも)乾燥した空気が光子は嫌いだ。早く保湿効果の高い美容液を塗らなくちゃシワのもとだわ、などと考えながら光子は頭をうしろにもたげ、やわらかすぎるベッドマットに体を沈めて天井の星空を眺めた。数秒ごとにちらばった星が星座の形に集まっては消える。田舎のラブホテルにしてはなかなか凝ったつくりだと思いしばらく見ていると空ははやがて最初の形に戻り再び同じ動きを繰り返しはじめた。どうやらバリエーションは5種類しかないらしく、しかも季節も位置もまるででたらめのようだ。
すぐに飽きて光子は男に目線を下ろした。肥満気味であるのと頭が薄くなってきているせいでずいぶん老けて見えるがまだ30手前だという。もともと小さな目は余分に付きすぎた肉に埋もれて今や行方不明寸前だ。
変わった客だった。部屋に入ると男はおもむろに抱えて来た白い大きな紙袋から有名ホテル(ラブが付かない方の)の宅配ディナーを取り出した。立ち尽くす光子に男は母親が子供にするように前掛けの要領で紙ナプキンをかけ、ソファに座らせるとてきぱきと立ち回りあっというまにクリスマスディナーのフルコースを目の前に出現させてみせた。
「今は通販で買えるからほんと、便利だよね」と男はすこぶる満足げだったので、機嫌を損ねないように光子もそれにあわせた。しかし「でもさ、こういうのって逆にオシャレだと思わない? シティホテルでディナーなんてもうナンセンスだよ」の問いには「やっぱり一流ホテルのは違いますね」と返した。そして結局光子は手のひら大のチキンを三本もたいらげたのだった。
シャワーヘッドから直接口で受け二、三度ゆすいで吐き出した湯にはピンク色の筋が幾本か混じっていた。泡立ったそれが渦を巻いて排水溝へ吸い込まれていくのを目で追う。さんざん粘っていたチキンの切れ端も一緒に流れていった。右肩にシャワーを受けながら光子は舌で傷をなぞり、しばらくぼんやりとたたずんでいた。
髪を乾かし化粧をし、身支度を整えて部屋へ戻ると男はだらしない体をベッドに放り出して眠っていた。あまつさえいびきすらかいて。
ーーあらあら、食欲、性欲ときたら今度は睡眠欲? 欲望もフルコースってわけ。
「おじさん」
男は無反応だった。光子は、あ、しまったと思い、もう一度かわいらしく声をかけた。
「お・に・い・さ・ん」
「ん……あ、な、なんだい?」
男はがばっと身を起こすと小さな目をぱちぱちと数回まばたきさせ言った。顔のあった場所には大きなよだれのしみが出来ていた。どうやら本当に聞こえていなかっただけらしい。光子の心配は杞憂に終わった。
「あたし先に出るわね。一緒だといろいろマズいでしょ? ほら、こんな格好だし」
コートの中のセーラー服をちらっと覗かせて光子はおどけてみせた。
「あ、ああ。そうだね。うん」
「今度はもっとおにいさん好みのかわいい子、紹介したげる。小柄で丸顔のぽっちゃりした子がいいのよね」
「いやぁまあ。でも、き、君だって十分かわいいと思うよ」
男は頬を赤らめながらつぶやいた。
「ふふ、ありがと。じゃあね」
爪の中まで念入りに洗ったにもかかわらず足先にはまだあの男の舌の感触が残っていて光子は顔をしかめた。両ポケットに手を突っ込んでローファーの中で親指に力を入れながら歩いていると坂出駅前の商店街出口へ辿り着いた。家には商店街を通らないほうが近道なのだが、早く家に帰る理由もなかったし、その雑多な灯りと喧噪に引き寄せられるように光子はなんとなく商店街へ足を踏み入れた。
アーケードの下はクリスマス一色だった。信仰とは無関係の、主にケーキ屋とジュエリーショップとカップルたちのための色ボケイベント。聞けば都会では24日の夜のシティホテルは軒並み満室らしい。聖なる夜にみんなそろってセックスをしているというわけだ。
ふいに木枯らしが商店街のアーケードを吹き抜けて光子は思わず目を細めた。コートの襟元を引き寄せながら目を開けると、6軒ほど先の本屋に同じ制服を着た女子学生がなにやら雑誌を立ち読みしているのが見えた。興味本位でゆっくりと近づいていくと雑誌の表紙に書かれているコピーがだんだん読めてきた。
「……冬のおでかけ……はじめての……手編みニット?」
ああ、と光子は小さく声に出した。
ーーなるほど、そういう時期だものね。まあ、中学生らしくてほほえましいこと。
自分とは無縁のその光景。ありふれた理由づけがなされたことによって光子の女子高生に対する興味は急激に失われていった。
しかしその女子生徒の顔を確認すると光子の表情は一変した。
「……好美?」
ぷっくりと盛り上がった頬に丸い頭、丸い目と鼻、小さな口。まだまだ幼さの残るそれはまぎれもなく矢作好美だった。見慣れた顔にはやわらかな笑みがうかび、ページをめくる手も羽根が生えているかのように軽やかだ。好美は浮かれた街のムードに完全に同調していた。いや、意識してなじもうとしているように見えた。彼氏のクリスマスプレゼントに手編みのマフラーを編もうと心躍らせる“ごく普通の女子中学生”然として。
光子が立ち止まってようすをうかがっていると、同じ学校の学生服を着た男子生徒が好美に向かって歩いてきた。
見覚えのあるラテン系の濃い顔立ちは50メートル先からも判別できた。同じクラスの倉元洋二だ。洋二はポケットに両手をつっこんで足取り軽く好美に近づき、ぽんと肩をたたくと右手を上げて厚めの唇を開き「よ」と形づくった。
振り向きざま、好美の顔が一気にほころんだ。手に持っていた雑誌を乱暴に棚に押し込めると戻した本を覗き込もうとする洋二を牽制して本屋を出た。洋二の右側に好美が並ぶと、洋二はごく自然な動きで好美の手をとった。好美は少しまわりを伺うように視線を泳がせたあと、大丈夫だと判断したのか洋二に体を預けた。そしてそのまま二人は街で唯一のハンバーガーショップへと消えた。
光子は無表情で口の中の傷を舐めた。そしてそれを軽く噛むと止まっていた血がふたたび滲みだした。
翌日の放課後、清水比呂乃は光子に裏庭へ呼び出された。
「なに」
ぶっきらぼうに比呂乃は言った。
「そんな恐い顔しないでよ。こないだの客のこと、まだ怒ってるの?」
「あたりまえだろ。あんな客」
比呂乃は不信をあらわにした目で光子を軽く睨んだ。組織と通じているのは光子なので、基本的に比呂乃には選択権はない。どんな客を斡旋されるかは光子次第なのだ。
「ごめんなさいね。でもあたしだってお客さんを選べるわけじゃないのよ? 昨日だって……」
うつむき、もじもじと言葉を濁す光子に比呂乃は苛ついて言った。
「昨日がなんだよ」
「……すごくしつこいお客さんでね、体中舐められてげんなりしちゃった。しかもSMの気もあって、ほら」
そう言って光子はセーラー服の袖をめくり上げ、腕に残る痣を見せた。
比呂乃の顔にほんの少し同情の色がうかんだ。それを見て光子は心の中でにやりと笑った。
「お仕事だからって割り切ってるつもりだけど、でも好美が…」
「好美?」
「ううん、風邪だから仕方なかったのよ。でも、もともとはあの子のお客さんだったから」
「好美が風邪?」
「そう言って断わったわ」
「あいつ風邪なんかひいてない」
「え、そうなの? じゃあどうして」
「どうしてって、嫌んなったんだろ。来た仕事は断らないって最初に約束したのに、あいつ」
比呂乃はチッと舌打ちをすると唇を噛み表情をゆがめた。 「誰にでもそういうとき、あるわよ」
光子がやさしく微笑んでたしなめるように言うと比呂乃はキッと光子を睨みつけた。
「でもあたしは断わらなかった」
「でも好美、他に用でもあったのかしらね?」
比呂乃はふうとため息をひとつつくと声のトーンを落として言った。
「……倉元だろ」
「倉元くん?」
「あいつら一ヶ月ぐらい前から付き合ってんだよ。好美なんか浮かれちゃってどうしようもねぇよ」
「比呂乃は知ってたの?」
「ああ、好美から聞いた。でも光子には言わないでって言われてたから黙ってたけど」
「そう……あたしには……」
光子は悲しげな表情を作って見せた。比呂乃は少しばつの悪そうな顔でそのようすをうかがっている。
「好美が絶対光子には言わないでって言うからさ……それであたし」
「ふふ、いいのよ、実は昨日商店街で二人をみかけたの。とても仲が良さそうに見えたからもしかしてと思ったんだけど」
比呂乃の表情が強張った。ようやく光子の思惑を理解したようだった。
「やっぱりそうだったのね」
比呂乃を裏庭に残して教室に戻った光子は生徒手帳から件の写真を抜き出すと裏に一言メッセージを添え、破ったノートで包んだ。それはまるでクラスメイトの女子たちが仲の良い子たちで回す手紙のように見えた。そしてそれを放課後のも誰もいなくなった教室でそっと倉元の机の中へしのばせた。
そして鞄を持ってトイレに行くと光子はセーラー服の袖をまくり、さきほど比呂乃に見せた痣をハンカチでこすり落とした。
翌日、光子は教室の一番うしろの自分の席からみっつ斜め前の洋二を眺めてすごした。
写真を見た時の洋二の顔、好美が話しかけてもぼんやりとしたままで怪訝そうに立ち去った好美の顔、そしてそれらを満足そうに見つめる光子の顔。
ほおづえをついて眺めると外は晴れて空高く、ときおり茶色く枯れた落ち葉がどこからか風に吹かれて飛んでくるのが見えた。教室内のストーブは煌煌と赤く燃えていた。
授業が終わるのを見計らって、洋二は光子を社会科教室へ呼び出した。
午後4時を回ったばかりですでに陽は傾きかけ、社会科教室内はひんやりとつめたかった。背の高い本棚に遮られて死角になっている一番奥のスペースで二人は向き合った。
「どういうことだよ」
「それは何に対しての質問かしら?」
光子は腕を組んで首をかしげ、しれっと言った。
「とぼけるな」
「とぼけちゃいないわ。質問の意図を明確にしてって言ってるのよ」
「そもそもなんでおまえがこれを持ってるんだ」
「知りたいなら答えてあげてもいいけど、それは問題の核心じゃないんじゃない?」
洋二は光子の鋭い指摘にたじろいだ。苛立ちをぐっとこらえるような表情を見せ、唇を噛んだ。
「……どうせ合成かなんかなんだろ」
洋二はポケットから写真を取り出し、一度だけそれを見た。そこには好美と中年男(彼らの親かそれより少し上ほどの年の)がベッドに入っている姿が写し出されていた。そのあと光子に見せようとしたが思いとどまり、やめた。
「そう思うならそれでもいいわよ。なんなら好美もここへ連れて来てお話しましょうか?」
洋二は答えなかった。
「あたしが言うのもなんだけど、好美はこういうこと平気でやる子なのよ。あなたにはどんな可愛い顔見せてるか知らないけどね」
洋二は迷っているようだった。光子の言葉をまるきり信用するわけではなかったが、右手に持った写真を完全な作り物だと言い切ることもできなかった。なぜなら洋二は好美に補導歴があることを知っていたから。詳しく詮索したことはなかったが、光子や清水比呂乃と一緒になっていろいろやっていたということは付き合う前から噂で知っていた。
「今ならまだ遅くないわ。ね」
洋二はあいかわらず黙ったままだった。洋二の手に力が込められ、持った写真がくしゃりとつぶれた。
「……これはもらっておいていいか」
「え? ええ、もちろんいいわ」
洋二は黙ったまま光子を残して社会科教室を出て行った。
後ろ手で閉められた引き戸が枠に当たった反動で少しだけ開いた。その隙間を見つめながら光子は満足げに微笑んだ。
クリスマスを直前に控えた学校ではやれ誰が誰にプレゼントをあげただのあげないだので大盛り上がりだった。実際に光子はすでに何度か校内でその現場を目撃していた。
「そーまさんはプレゼントとかしないの?」
三村信史がいつものノリで軽く声をかけてきた。そのせいで光子は不本意ながら近くにいた瀬戸豊や七原秋也、国信慶時らの注目をも浴びることになった。
ーーあたしになんか興味ないくせに。気まぐれでそういうのされるとほんと迷惑。
しかし光子はにっこりと笑って返した。
「クリスマスプレゼントって貰うものじゃなくて?」
その答えにその場にいた全員の動きが一瞬止まった。口火を切ったのはやはり信史だった。
「こりゃ失礼。残念ながら何も用意してなくって。あ、キスでよければ」
「そういうのは欲しがってる子にあげれば」
「こう見えても安売りはしないんですよ」
「あら、そんなに高いものだったの? ごめんなさい、知らなかったわ」
ははは、と笑う信史のうしろから豊が小さく“行こうよ”とつぶやいた。それを見て光子は机につっぷし、寝たふりをした。
「……くだらない」
光子のつぶやきはセーラー服のヒダの間に吸い込まれ消えた。
終業式が終わった翌日のクリスマスイブ、早々と陽が落ち始めた頃、光子は先日好美と洋二が入っていったハンバーガーショップのカウンターに座りファッション誌をめくっていた。クリスマスプレゼント特集のページを物色していると、目の前のガラス越しに洋二と好美が喫茶店に入っていくのが見えて光子はページをめくる手をとめた。
二人の手はつながれておらず、その立ち位置にも若干距離があるように見えた。
ーー早速別れ話でもするつもりかしら。だとしたら案外残酷なことするのね、倉元くん。
光子は待ち人が来るまでの暇つぶしに興味深く二人の様子を見守ることにした。
その喫茶店には今時めずらしいゲーム機と一体になったタイプのテーブルが一台だけ置いてあり、好美と洋二が入ったときはその席しか空いていなかった。二人が生まれる前に流行ったらしいインベーダーとかいうゲームが入っているようだ。今でもプレイ出来るのかはわからないが。
「ホット、でいいか?」
「うん」
洋二は指を二本立てながらウェイトレスに“ふたつ”と言った。
「ごめん、ムードないよな、こんなテーブルじゃ」
「ううん、いいの、洋ちゃんと一緒なら」
好美がそう言うと洋二はやさしく微笑み返した。
「洋ちゃん、これ。ちょっと早いけどクリスマスプレゼント。昨日やっと編み上がったから早く渡したくて」
「俺に?」
「うん。開けてみて」
赤い包装紙に金色のリボンがついたそれは軽くて大きかった。ハート型のシールを外して包みを開けると、包装紙と同じ赤い毛糸で編まれたマフラーが顔を出した。
「これ、好美が?」
「うん、はじめてであんまりうまく編めてないんだけど……ちょっと派手かな?」
「いや、あったかそうでいいよ」
「よかったぁ!」
洋二はマフラーを首に巻いてみせた。
「どう?」
「似合う! 洋ちゃん顔だちがハッキリしてるから濃い色のほうがいいかなって思ったんだ」
好美は少しうつむき加減で照れながらつぶやいた。
「……好美」
「うん?」
二人の視線が絡み合った。
「ケーキ好きか?」
「え、うん、好きだよ」
「すみません」
洋二がおもむろにウェイトレスを呼んだ。
「ショートケーキひとつ追加してもらえますか。いちごのやつ」
「かしこまりました」
ウェイトレスは伝票入れから伝票を取り出し、そこにさらさらっと記入しするとおじぎをして去った。
「やっぱりクリスマスはケーキがなくちゃな」
「え、でも、洋ちゃんの分は?」
「俺はいいんだ。おまえ食えよ」
「そんな……あ、じゃあ半分こしようよ。ね」
「いいって」
「だってひとりで食べるの嫌だよ」
「わかった、好美の言う通りにする」
洋二はまいったというふうに手を挙げて笑った。
間もなくコーヒーとケーキが運ばれてきた。ケーキはふたりのちょうど真ん中に置かれた。
「いちごは洋ちゃんにあげるね」
「嫌いなのか?」
「ううん。洋ちゃんいちご好きでしょ?」
「でもおまえも好きだろ」
「うん、でもあたしより洋ちゃんのがきっと好きだから」
根拠など何もないはずの好美のその発言が、洋二の心にわずかばかり残っていたつめたいしこりを完全に溶かした。
もう迷うことはない、そう洋二は確信した。
「じゃ、いただきます」
「洋ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
「なにが?」
「あたしなんかと一緒にいてくれて」
好美が何を言わんとしているか、洋二にははっきりと分かった。分かったがあえて追求はしなかった。それはもう洋二にとって意味のないことだったからだ。
「“いてくれる”んじゃない、俺はおまえと一緒にいたいんだ」
「……ありがとう」
「ほら、早く食わないとなくなるぞ」
「うん」
声こそ聞こえて来ないものの、そのほほえましいやりとりから光子は二人がどういう会話をしているのか見当がついた。少なくとも光子の望んだ展開にはなっていないことは確かだった。紙コップから薄いオレンジジュースをストローで吸い上げていた光子は、テーブルの下でどんと壁を蹴った。隣の客が怪訝そうに光子を見たが関係なかった。
「……痛」
口の中の傷をまた噛んでしまった。治りかけたと思ったらまた噛んでしまう。その繰り返しで皮膚は厚く硬くなっていく。
「光子」
声に振り向くとグレーのコートに身を包んだ長身の男が立っていた。昨日の客の紹介主、光子のご贔屓の常連客だった。男は大学病院の教授で、少し長めにカットされた白髪まじりの髪がいかにもインテリっぽく見える。
「おや、ご機嫌斜めのようだね」
「そんなことないわ」
「知らないだろうが君は自分で思っているより感情が顔に出るタイプだよ」
「あら、じゃあそうなんじゃないかしら」
「そういうところも気に入っているよ。さ、行こうか」
光子は男の運転するBMWのセダンに乗り込んで瀬戸大橋を渡り、大阪へ向かった。
「あんな街、早く出たいわ」
助手席のシートにもたれかかりながらぽつりと光子はつぶやいた。ほとんどひとりごとのように。
「たしかに君はこんなところで一生を終えるにはもったいないかもしれないね」
しかし男は決して自分が連れ出してやろうと言ってなどくれない。
すっかり陽の落ちた窓の外に広がる夜景が美しい。光子は口を開けバックミラーに映してみた。するとミラーの角度がちょうどいいのか、今まで見えなかった傷がその姿をあらわにした。月のクレーターのようにそこだけ白くへこんでいる。
「膿んでるじゃないか。薬をつけるかい?」
男はそう気づかったが光子は無視してわざと赤い舌をつき出し、ただ傷を舐めているだけだった。