Mのトランク
平日の日中、父親は仕事で、母親は習い事で出かけてしまう三村家は子供の城となる。監視される窮屈さとは無縁だし、広いリビングやたっぷり食べ物の詰まった冷蔵庫なども自由にできる。なにかにつけ親を口うるさいと疎んじる年頃の彼らにとってはこれ以上ない遊び場だ。ただ、どういうわけか杉村はそこにいるとき不可解な心もとなさを感じる。どう閉めても隙間のできる障子を背に座っているような、そんな気がしてしまうのだ。
誰もいないリビングに向かって「おじゃまします」と挨拶をした杉村を三村は「ここでまでマジメやんなくていいよ」と笑った。杉村は「別に無理してやってるわけじゃない」と反論したが、逆に「それそれ、その返し」とさらに笑われてしまった。
そのまま階段へと誘導され、二階の三村の部屋の前で二人、足を止める。
「あ、なんか飲むもの」
三村が両手のひらで太ももをぱんと叩いた。
「何がいい?」
「なんでも」
そっけない杉村の返事に、三村は「あっそ」と応えてそそくさと一階へ向かう。一瞬、杉村は自分もついて行くべきか迷ったが、一緒にいると三村のマシンガントークから解放されないと思ったのでやめた。いいかげん小休止したかったのだ。
三村はよくしゃべる。学校からここまで来る道中でも、ずっとしゃべりっぱなしだった。必要にかられなければ口すら開かない杉村は、その行動を理解し難いと思いつつ、自分には逆立ちしてもできないという意味で尊敬してもいる。だいたいは三村が一方的に話す形だが、たまに同意や意見を相手に求めることもある。それでも杉村が返すのは「ああ」「うん」「そうだな」「へえ」などのあいづちばかりだ。
基本的に、三村の論を杉村は否定しない。かといって話を深めることもしない。理由は、話題が自分のテリトリー外だったり、単に興味がなかったり、あるいは知識量の圧倒的な差のためだったりといろいろだが、一番は、三村が自分に本気でなにかを求めようとしているとは思えない、ということだ。だから杉村は黙って三村の話を聞くだけに留める。求められていないものを渡そうとするのはエゴだと思うから。
もっといえば、杉村は三村の話に心の底から共感できたことがない。共感。辞書には、
①他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。
②他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。
③感情移入。すでに自分の中に存在する感情を揺さぶられること。
とある。三村の話は杉村をそのいずれの状態にもしない。しかし、その理由も先述と同じく〈三村自身がそれを望んでいない〉せいだと杉村は思っている。だからなにも問題はない。
部屋に入り、カーペットに腰を下ろす。三村の趣味からするとかなり意外な感じの、薄いピンクのカーペットだ。
この部屋にはたくさんの〈モノ〉がある。どんなに小さな〈モノ〉からも、三村の〈主張〉が放たれていて、だからこれはきっと三村が選んだものではないのだろうな、と杉村は予想している。
部屋にはある種の世界地図、〈敵国語〉で書かれた書物の類などが山のように積み上がっている。そのなかで机上のパーソナルコンピュータと同じくらい杉村の目を引くのは、部屋の隅に置かれた革のトランクだ。よく焼けて全体が飴色になっている。それなりに古いもののようだが、目立った汚れはなく、手入れは行き届いている。
はじめてこの部屋に来た時も、杉村は最初にこれへ目を止めた。いったい、何泊用なのかと思うほど大きなトランク。取っ手に巻き付いたネームプレートには名前らしきものが書き込んであるが、インクの劣化でほとんど判別不能だ。かろうじて一文字だけ〈M〉の文字がうっすら読み取れる。
とん、とん、と階段を上ってくる音がしたので、杉村は立ち上がり、部屋の内側へ扉を引いた。
「サンキュ。気が効くね。果汁系しかなかった」
「かじゅうけい?」
三村のことばを漢字に変換できなかった杉村が問い返したが、三村はそのことに気づかなかった。
二人はテーブルを挟み、向き合って座る。三村は持ってきたトレイを一旦、床に置く。
「グァバとオレンジどっちがいい?」
三村は縦長の紙パック二本をトレイから下ろしてテーブルに直乗せし、杉村の目の前へぐいと押し出した。どちらもすでに一度開封されている。続けてグラスだけが乗ったトレイをテーブルへ乗せる。白地に青い薔薇が描かれた陶器のトレイに杉村はデジャヴを感じる。母親の趣味といのはどこの家でも似たり寄ったりなのだなと。
「じゃあオレンジで」
頷いて紙パックの口を開きながら三村は「だと思った」と笑った。
「なんで?」
「考えが保守的だから」
三村の口から放たれた『保守的』という言葉の響きがどことなく非難めいて聞こえて、杉村はめずらしく反論したい気持ちになった。
「保守的の反意語ってなんだっけ?」
三村は紙パックをテーブルの上に置き、グラスを持ち上げた。飲み口についた小さな埃をふっと息で払い、映り込む杉村をグラス越しに眺めながら、
「革命」と、つぶやいた。
「革新だろ?」
「なんだ知ってんじゃん」
三村はグラスにオレンジジュースを注ぎながら「ヒロキくんのいじわるぅ~」と口を尖らせた。杉村は唇を噛む。思惑が上滑りしたようで恥ずかしい。
「これオレンジ?」
ごまかしも兼ねて杉村が問う。
「そう。びっくりした? 真っ赤だろ。ブラッドオレンジって言ってシチリアで採れる品種なんだって。母親の知り合いにこういうの詳しい人がいるらしくってさ。しょっちゅう変なもん冷蔵庫に入ってるよ。海外品は親父がうるせーから目につくとこに置くのやめろって言ってんだけど、そういうの無頓着だから、あの人」
杉村の胸の内をざっと不穏な感情が駆け抜ける。自分の母親を『あの人』呼ばわりするメンタリティは杉村の中には育っていないからだ。三村は口調や言葉遣いから、時折、その片鱗を覗かせ、そのたびに杉村の胸はざわつく。三村のことだから無自覚にということはないのだろうが、それが余計に杉村をどこか悲しい気持ちにさせるのだ。
ほうっておくとどんどん沈殿していく感情を拡散するために、杉村は目の前の三村から目を反らし、部屋のあちこちへ視線を泳がせた。まるでジャングルだな、と思う。薄クリーム色に染まったコンピューターから床へ延びた幾本もの黒いケーブルは、さながら地を這う蛇のように見える。蛇は気配を消し、音を立てずに獲物へ近づくという。ちろちろと赤い舌を出して。
「ここには入ってこないのか」
「え? なにが?」
「こんな状態見たら怒るどころじゃないだろ」
「ああ。それは大丈夫。鍵かけてあるから。ま、むこうも別に入りたいとも思ってないだろうけど」
「入りたくないってことはないんじゃないか。子供の部屋に興味ない親はいないだろ」
「そーなの? 俺、いろいろと経験ズミな方だけど、さすがに親になった経験はまだないからなー」
ジョークのつもりらしかったが、ちっとも笑えなかった。それどころか、杉村は締め出しを食らった気がした。三村の父親と同じように。腑に落ちない思いでオレンジュースを口に含む。毒々しい赤色の見た目に反して、意外と味は素朴でやさしかった。
普段、学校で三村は瀬戸と一緒にいることが多い。杉村と違って瀬戸は三村の言うことにこう返す。『すごいや、シンジ』『さすがシンジだね』『やっぱりシンジの言うことは違うね』と。尊敬と羨望と賞賛。純度百%の肯定だ。
しかし杉村はそれを友達のあり方として正しいのかと疑問に思うことがある。間違ったことは間違っていると指摘してやるのが本当の友達というものではないのかと。
「さすが三村」
「なにそれ」
「なにって、そう思ったから」
杉村に近い方の眉の尻を上げて見せた三村は、「うそつき」と言ったきり、しゃべるのをやめてしまった。
二人は黙ってジュースをすすった。喉の鳴る音が、ごくり、ごくり、とこだまする。
突然、パン!という高い音が轟いた。銃声だ。反撃だろうか、続けて、最初より少し低め音で二度、鳴り、そのあとはふたたび静寂が訪れた。悲鳴は聞こえなかった。
窓を背に座っていた杉村は条件反射で身体を窓から逃がし、座ったままの体勢で滑るように部屋の中心へと移動した。
「防弾になってるから大丈夫だよ」
そう言った三村の声は冷静で、立ち上がって窓へ近づくと、ガラスにそっと手のひらを当てた。
「防弾……。すごいな」
今度は本心だったが、杉村は口にしてから(しまった)と思った。しかし三村は「うん」と素直に返事をしただけで非難はしなかった。
「親父が変えたんだ。小学校二年くらいの時だったかな。近所でわりと派手な銃撃戦があって。覚えてない? 本州から反政府グループの指名手配犯が何人か逃げて来たの」
言われれば、そんなニュースを観たような気もする、と杉村は記憶を辿る。だが、はっきりとは思い出せなかった。
「流れ弾が隣の家の子供に当たってさ。亡くなったんだ。そんで。ここだけじゃなくて、ウチの窓は全部防弾になってる」
「全部? 相当金かかったんじゃないか」
「たぶんそうだろうな。さすがにガキだったからそこまで頭回らなかったけど。防弾の意味もよくわかってなかったし。ただ、工事に来た男と親父が並んでここに立って外を見てた光景はよく覚えてる。工事の男の履いてた靴下がやたら汚くて親指の先に穴があいてた。一階はともかく、二階までやる必要はなかったんじゃないかとは思うけどな。ここまで流れ弾が飛んでくる確率なんてすげー低いじゃん?」
話を聞きながら杉村はことばを探していた。言いたいことはあるのだが、どう伝えても三村を怒らせることになりそうでなかなかそれを口にできない。
「その頃はまだ親父さんもここに入れたんだな」
なんとか言葉をみつくろったが、残念ながら出来はいまいちだった。
「あのさ、誤解してほしくないんだけど、今だって別に誰も入れないってわけじゃないんだぜ。郁美はしょっちゅう入ってくるし、夏休み中は豊がほとんど毎日ここに入り浸ってたし。現におまえだっていまここにいる」
杉村は何かがすとんと胸へ落ちた気がした。瀬戸に妹。こう言ってはなんだが、二人とも三村より〈下の人間〉だ。なるほど、と思う。自分もその一員ということか――。杉村は頭が冴えていくのがわかった。
「おふくろさんは?」
「あの人は逃げてるから」
「逃げてるって何から?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「めずらしく突っ込んで聞いてくるね。俺んちの家庭崩壊話に興味ある? 聞きたいんだったら話すけど、〈大東亜共和国陸軍志願兵募集〉のポスターくらいありふれたエピソードしかないぜ」
「あ、いや、その。悪かった」
そう言って杉村は律儀に頭を下げた。
「はぁ……。俺、おまえのそういうとこちょっと苦手。でも、もし俺が女だったらおまえみたいなのに惚れてる気もする」
「は? なにそれ。ていうか、なんで?」
「それ言わせんの?」
三村のやり口に翻弄されることに杉村は慣れている。だが、頭で分かっているのと心が揺れるのは別の話だ。どう出ても勝てる気しない杉村は話題を変える。
「この部屋の写真一枚でも表に出たら無事じゃ済まないな」
「そうしたいならしてもいいぜ」
「まさか。おまえ、俺がそんなことすると思ってるのか」
「だったら〈はな〉から入れないさ」
「しかしよくこれだけ集めたな」
……集めたのは俺じゃない。ここはただのコピーなんだ。いつかこれ以上のものを自分で集めたい」
――ああ。
それで、杉村は自分の思い違いに気づく。
この防弾ガラスは外からの攻撃を防ぐものではなく、〈それ〉が外へ飛び出すのを防ぐものだったのだということに。
杉村はやるせない気持ちで再びトランクへ視線を投げる。防弾ガラスの向こうから、カーテンの模様に姿を変えた西日が革のトランクへ影を落としている。
いつかあの大きなトランクを持って三村はここを出て行ってしまうのだろう。そう思った途端、杉村にはあのネームプレートの〈M〉の文字が急に禍々しいものに思えてきた。まるでその日の訪れを予言しているかのようで。