礼儀知らず
登校してきた俺の頬がうっすら赤く腫れているのを見てどう反応するか、三者三様、面白いように性格が出るだろうと予想はしていた。豊はまず怪我なのかどうか尋ね、違うと言うと、勝手に何かを察して、少し批難めいた表情をつくり、「またなの」と眉をひそめた。瀬戸豊くん、正解。さすが伊達に長い付き合いじゃない。で、それで終わり。それ以上茶化すでも追求するでもなく、すぐにいつもと同じくだらない世間話を始めた。豊は俺の恋愛話を深掘りしてこない。
七原はニヤニヤしながら近づいてきて、俺が口火を切るのを待っていた。その下世話な好奇心を満たしてやるのも癪で黙っていると、突然頬に人差し指を押しつけてきた。つつくというようなかわいいものではなく、肌の肉が変形するレベルで押し込んでくる。痛くはないもののかなりイラッとした。(普通するよな?) 指を払いのけ、抗議の意味を込めて睨みつける。
「叩かれた?」
「そうです」
「女の子に?」
「左様でございます」
わざと慇懃無礼に返事をしていると、今度は七原がニヤニヤをやめてこちらを睨んだ。
「女の子を傷つけるようなことすんなよな」
まるで彼女の心を代弁してやったと言わんばかりの言い草に腹が立つ。見たのか。聞いたのか、彼女に。しかし、反論するとどうなるのか目に見えるのでやはり黙っていた。表立って主張する気はないが、傷ならこっちにもついてる。別れ話ってのは切り出す方も辛いんだぜ。
昨日の下校前、付き合っている女子に呼び出されて問い詰められた。表情と態度で何の用かなんとなく察したが、気づかないふりをした。
「三村くんわたしのことどう思ってるの」何度か投げられたことのあるフレーズを、彼女は息を継がず早口で吐き出した。「わたしばっかり好きな気がする」
どんなに仲が良くてもまったく同じ配分で想い合える方が少ないと思うが、おそらくそういうことを言っているのではない。こちらの向き合い方が彼女の望む形ではないことを不満に思い、非難しているのだ。すっと頭の後ろが醒めていくのを感じる。《そんなことないよ》《そんな気持ちにさせてるなんて思ってなかった》《知らないうちに傷付けててごめん》 この場を治めるための定型フレーズが脳裏を過ぎる。しかし、それらのやさしい嘘で彼女との付き合いを継続したい気持ちはなかった。正直、そろそろ時間の問題だと思っていた。なので、そのまま素直に伝えた。結果こうなった。つまりこれは、契約終了のサインってわけだ。
郁美に責められながら冷凍室にあった保冷剤で頬を冷やした。翌日の登校時までに赤みが引いてくれればと願ったが、一晩寝てもそこそこ目立つほどには赤かった。彼女の悲しみだと思っていざぎよく受け止めろということかもしれない。俺も鬼じゃない。そういう気持ちもちゃんとある。だからあえて隠さず来た。堂々と見せびらかしている――ように見えるかもしれない――俺を見て、一部のクラスメイトの女子たちはまたサイテーだと罵るのだろう。好感度の下落は留まるところを知らない。でもこれで俺が彼女に酷い仕打ちをしたせいで張り手を食らったと噂になり、結果、別れの原因は俺だということになるなら、それはそれでいい。そのほうが彼女は話がしやすいだろうし、気持ちも早く回復するのではないかと思うので。
朝の寝ぼけた頭に豊と七原の反応はそれなりに気持ちを落とさせたが――特に七原――、ある意味予想通りだった。
残る一人は、まだ登校してきてないが、俺の左隣に席がある。ついこの間の席替えで隣同士になったばかりだ。それまで隣が内海だったので――内海がどうこうというより、そこへ中川(有香の方)や谷沢らの女子グループが集結すると結構騒々しい――、それが杉村になってようやく日々の平安が訪れたと喜んでいたのだが。運の悪いことに腫れているのは左頬ときてる。あの子が左利きだったらよかったのに。
とはいえ、生傷が絶えないといえば、杉村こそそうだ。拳法の道場に通ってて、しょっちゅう打撲による青痣を作っている。だからこれくらいのことに頓着しない可能性もある。
ただ、それはそれでどうなんだろうな。杉村ほど本気でないにしても格闘技の基礎くらいは囓っているのでわかるが、強いやつほど傷がつかないものだ。ということは、あれは弱い証拠なのかもしれない? 道場には結構長く通ってるって言ってたけど、実はセンスがないとか。って聞いたら怒るかな。ほとんど怒ることのないあいつが怒るところ、ちょっと見てみたい気もする。
「何ひとりで笑ってるんだ」
頭上すぐそばで声がして見上げると、杉村がいた。不審そうな視線をこちらへ投げて椅子に座り、静かに学生鞄を机に置いた。
「笑ってた?」
杉村は教科書を机の中に仕舞いながら、うん、と頷いた。
お前のせいだよ、と言ってやりたいところだがそれだけでは意味が分からない。だからといって、一から説明するにはあの話を持ち出さないといけない。
「ところで」鞄の中身を机に移し替える作業を終え、身体ごとこちらへ向けた杉村が自分の左頬を指した。「どうしたんだ、それ」
あ~……ですよね~、気になりますよね~。だって俺は杉村じゃないから。杉村なら日常茶飯事でも、俺はそうそう怪我なんてしないですもんね~。甘い希望を持った俺が馬鹿でした。
「彼女に別れ話したら叩かれた」
それに杉村は、ほう、と聞こえるか聞こえないかぐらいの声でつぶやいた。そこに驚きの感情は読み取れなかった。かといって、面白がってるという感じでもない。ただ、純粋に事実を受け止めているというふうに、俺には取れた。
「で、別れたのか?」
なんだその質問は。別れ話で平手打ちされて別れないってどういうシチュエーションだ、と思ったが、一拍おいて、雨降って地固まる的なことを言っているのかもしれないという考えに思い至る。もめはしたけど関係性は継続したパターンかもしれないと、そう思っているのだ、おそらく。
「残念ながら契約は無効となりました。こちらに了承のサインが」
両掌を天に向けて翻したあと今度は自ら頬を指し、オーバーリアクションでおどけてみせた。にもかかわらず、杉村はいつの通りの真顔のまま無反応だった。
「おい」
「え?」
何を咎められているのかまったくわかりませんといった風情で、二度、早めのまばたきをした。
「冗談は笑うのが礼儀だぜ」
特にこんな場合はな。
「ああ、そうか」
納得したように言うが、絶対わかってない、気がする。
「冗談だと思わなくて」
これが冗談じゃなかったらなんだって言うんだ。本気でこんなこと言うやつがいたらここに連れてこい。そうしたら考えを改めてやる。
「おまえそういうとこあるよな、クソ真面目っていうか」
「真面目は相手を貶める言葉じゃないぞ」
予想外の、でも杉村らしい返しに、今度は俺がまばたきを繰り返す番だった。
え、それって俺が杉村を怒らせようとしてると、そう言いたいわけですか? 冗談がスルーされて――しかも当人は無自覚で――、その腹いせに逆ギレのような子どもじみた仕返しをしたと、そう言いたいわけですかね。しかも残念ながらそんなやり方ではダメージなんて食らわないのでそもそも無駄だったと。なるほど。
なるほどじゃねえ。
「百歩譲ってそうだとして、褒められてるって思う? この文脈で」
「思うわけないだろ、何言ってんだ」
頭がクラクラする。相手に伝わらないことがこんなに腹立たしいとは。彼女の気持ちが少しだけ分かった。今更遅いし、もっと早くにわかっていたところで問題は解決しなかっただろうけど。
「お前と話してると疲れる」
「なら黙る」
そう言うと杉村は、ふい、と横を向いてしまった。机の中から文庫本を取り出し、挟んであったスピンを引き出して読み始めた。
ここまで興味なしの態度を堂々と出されたらこちらも諦めるしかない。そもそも何を言おうとしていたのかすら曖昧だ。クソ真面目だって言ったのがよくなかったのか。あれが分岐点か。言わなきゃよかったな。でも本当だしな。しかもそれが俺は決して嫌いじゃない。
杉村の座っている椅子の脚を蹴飛ばして注意を引く。杉村は文庫本を持ったまま顔だけをこちらへ向けた。
「なに」
「おまえのそういうとこな」
「そういうとこってどういうとこ」
「クソ真面目なとこ」
まだ何か文句を言われると思ったのか、杉村はあからさまに顔をしかめた。
「俺は好きだけどな」
三秒ほど置いて杉村の口角が持ち上がり、はは、と乾いた笑いが漏れた。どうやら冗談だと思ったらしい。