リセット・パルス

「もしもし」
 いきなり桐山が出た。おそらく他の人が出るだろうと沼井は内心思っていた。そうしたら速攻切ってやればいいと、掛けることで気がすむだろうと思っていたのだ。しかし本人が出たせいで沼井は焦って切るタイミングを失ってしまった。
「もしもし」
 電話口で桐山が繰り返した。元々用などない電話なのだ。沼井はどうにも答えようがなかった。
 と、突然腕時計のアラームがピピッと短く鳴った。沼井は反射的に受話器を置いてしまった。一息ついて腕時計を見ると9時だった。沼井はその場にしゃがみ込み、顔を足の間に埋めてうなだれた。
 しばらくするともう一度アラームが鳴った。9時半だ。半分眠っているようなぼんやりした頭で沼井はのろのろと立ち上がり電話ボックスを出た。家に向かって歩き出し、そしてひとつめの角を曲がったところで沼井はわが目を疑った。
「ボス」
 仕立ての良さそうな黒いPコートに身を包んだ桐山が立っていた。街灯の光に照らされて影が後ろへ長く伸びている。
「そこの電話ボックスからだったのか」
「なんで」
「電話を切る時に出る音で基地局がわかる。さっきおまえが先に切ったのがよかった。リセット・パルスは相手が切ってから5~10秒くらい経たないと判別できないからな。それで同基地局からの発信だとわかった」
 沼井の脳はその桐山の説明の半分も理解していなかった。それよりも今目の前に桐山がいることの方が重要だった。
「寒くないですか」
 桐山は半袖のTシャツとグレーの薄いパーカーだけの沼井の格好をじっと見た。
「おまえはいつも自分より俺のことばかり気にかけているな」
 桐山は静かに近づいてきた。目の前まで来ると首に巻かれたマフラーを外し、沼井の首にかけた。
「こんなところにいると風邪を引くぞ」
 いったい自分は何をしているのか、と沼井は自問する。こんな夜中にわけのわからない電話をかけて、あまつさえ桐山を寒空の下へ呼び出してしまった。重要なピースを見つけてパズルが一気に完成するように、沼井の思考が一瞬のうちにまとまっていく。
「すみません!」
 沼井は夜中に出すには大きすぎる声で頭を下げて謝った。頭を下げた拍子に桐山が巻いたマフラーの端が顔の前に垂れ下がった。そのまま沼井がずっと頭を上げずにいると桐山が話し出した。
「リセット・パルスで場所は特定できるが、相手までは特定できない」
「え、じゃ、俺だって知らずに?」
 沼井は顔を上げ、驚いたように尋ねた。
「いや、わかっていた。おまえだということは」
「なんで」
 さっきから馬鹿の一つ覚えのように沼井は同じ言葉を繰り返していた。
「腕時計のアラームだ。決まった時刻に鳴るように設定しているだろう。その音が電話口から聞こえた」
 ささやくようにそう桐山は言った。
「本当に風邪を引いてしまうぞ」
 桐山はもと来た道を引き返そうと歩き出した。
「ボス」
 その後ろ姿に沼井が声をかけた。桐山は立ち止まり振り向いた。
「なん……」
 言い終わらないうちに沼井が桐山を抱きしめた。桐山の言葉は沼井の腕の中へ消えた。
「帰るんですか」
「おまえが帰るなと言えば帰らない」
「おれがそう言わなかったら帰るんですか」
 沼井は桐山に回した腕に力を込めると桐山の顔がほんの少し歪んだ。
「俺ばっかりじゃないですか。ボスはそれでほんとにいいと思ってるんですか」
「…俺にはわからないんだよ。ただ、」
 次に続く言葉を桐山は模索しているようだった。二人の吐く息が白くけぶっては闇に消える。沼井はじっと耳を澄ませて待った。桐山の体温が徐々に自分の冷えた体を温めていくのを感じた。
「そうしたいような気がする」
 桐山はそうやさしく言った。やさしくというのは沼井がそう感じたというだけの話だが。
 沼井はゆっくりと腕を緩めて桐山の体を離した。重ねると桐山のくちびるは氷のように冷たかった。
「帰らないでください。お願いです」
 もう一度引き寄せた。桐山の頭が小さくこくりと頷いた。
 沼井の肩越しに空を見上げる形になっている桐山の目の前を白い塊が通り過ぎていった。雪が、降り始めている。
「充」
 それを知らせようとした桐山のささやきは鋭く冷えた闇の中、唯一体温を伴った確かなもののように響いた。
 

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