それはちょっと

「この浮気者!」という罵声と同時に平手が飛んできた。周囲の人びとから投げかけられる非難めいた冷たい視線と右頬の痛みの中で、(映画みたいだな)と、どこか他人事のように三村信史が冷静でいられたのは、あえてこの展開になるよう自らもっていったからだ。
『好きな人ができたんだ。君よりも、ずっと』
さも、準備してきましたよという風に言った。前置きもしなかった。いつもと同じデートの最後に告げた。で、さっきの結末。去り際、彼女は最後にこう言った。『こんなときも台詞みたいに言うんだね』それで終わり。
「こんなときもってことは、それまでも少なからずそう感じてたってことだ」
 そしていま、ファミリーレストランのソファー席で、三村は杉村弘樹を前にさきほどの事の顛末を語っている。なぜなら、偶然通りがかった杉村にその現場を見られたからだ。
「おまえが気づかなかったら俺は別に」
 杉村は何度も、自分は見て見ぬふりをするつもりだったのに、と弁解した。俺がおまえに言わせてるのではなく、おまえが勝手に話したがっているのだと。そう言いたいわけだ。
「俺が好きで話したがってるって?」
「そうは言ってない」
「ほんの一ミリでも不憫に思ったら黙って聞け」
「聞いてる」
 彼女が走り去った先に杉村がいたのだ。さすがの三村もそこまではコントロールできない。
「間が悪い」
「誰の」
「おまえの」
「そんな。不可抗力だ」
「そういうのを間って言うんだよ」
「おい、俺の話か?」
 不服そうに杉村が口を曲げて、三村はアイスコーヒーを一口すすった。
「ひどいやつだと思った?」
「ひどい言い方だと思った、正直」
「どこが?」
「あんなはっきり言わなくても。突き放そうとしてた」
「別れの理由ははっきりしたほうがいい」
「どうして」
「忘れるには理由が必要なんだよ。はっきりとした、な。曖昧な理由をいくつも並べるより、『君じゃだめだ』って言われたほうがあきらめがつくだろう? 彼女は彼女じゃなくなることはできないんだから」
「で、本当なのか?」
「なにが」
「その、他の人を好きになった、っていうのは」
 三村はいささか驚いた。まさか、そこを突かれるとは思っていなかったので。
「嘘じゃないさ」
 杉村は黙った。杉村のことだ、それを聞く権利は自分にはないとでも思っているのかもしれない。しかし、らしいなと納得しつつ、自分から探っておいてそれはないだろうとも思う。素直に、それは誰だと聞けばいいところを、無駄に話をややこしくする。
「誰って聞かないの」
「俺が知らないやつだったら意味ないし、下手に近いやつでもそれはそれで気になるし。でも、聞いたほうがいいってんなら聞く」
 ある種、予想通りの答えが返ってきた。一見変化球に見せかけて杉村的には直球コース。
「じゃあ聞いて」
「……誰なんだ」
 三村は思わせぶりに杉村を見つめた。身体の前でクロスさせた両腕をテーブルにのせ前傾姿勢になる、そして、近づかないと聞き取れないくらいの小声で「実は……」と言った。すると、思った通り杉村は続きを聞こうと身を乗り出して三村の顔へ自分の顔を近づけて来た。店内の喧噪から三村の声を拾い上げようと、三村に神経を集中させている。杉村の全意識が自分だけに向いているということに、三村は悪い気が気がしなかった。もうしばらくそのままでいたかったが、そういうわけにもいかない。こちらに向けられた杉村の視線を真正面で受け止めながら、言った。
「……俺」
 三村の告白はそれで終わりだったが、杉村はその先があると思ったようで、そのまま次の句を待っていた。しかし、三村が何も言わないので、業を煮やして催促をした。
「俺……の?」
「だから、俺。俺が好きなのは俺」
 そこまで言ってようやく理解した杉村は「はぁ?」と吐いた。
「結局、自分が好きなんだよ。ワガママなの」
 呆れている杉村に、三村はふたたび同じ質問をしてみる。
「ひどいやつだと思う?」
 杉村は否定も肯定もせず、ただ苦笑いで返した。

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