ウェヌスの両腕

 勉強に飽きたかほるは大きくのびをしてそのままうしろに倒れた。そして急にがばりと起き上がるとなにごとかを思い出したように鞄を探り始める。
「これ、これ」
 取り出されたのはわたしたちくらいの女の子を対象にしたファッション雑誌で、たぶんその手の雑誌の中ではいちばんよく売れているものだけどちょっと子供っぽくて正直好みではない。(あたしはもうちょっと大人っぽいのが好きなのだ)広げられているのは途中に挟まれている情報ページで、中学生向けファッション誌にだって今はけっこう過激なことが書いてある。親が見たら顔をしかめるようなことも。
「これがなに?」
「高校生の女の子からセーラー服とかブルマーを買ってそういうのが好きな人に売るの。今東京とかで流行ってるらしいよ」
「自分のセーラー服とかブルマを売るの?」
「そうそう。でもね、いちばん高いのはパンツ」
「パンツって下着の? それって履いたやつ?」
「あたりまえじゃん。新品だったらわざわざ買わないでしょ。サラリーマンのオヤジとかが買っていくんだって。馬鹿だよねー、自分の娘くらいの女の子のパンツとか買ってんだよ?」
 会社帰りのくたびれたサラリーマンがよれよれのブリーフケース片手に店に入り、自分の娘と同じ年代の少女の下着を撫でながら興奮している図を想像して思わずうげぇと顔が歪んでしまった。それが本当に自分の娘の売ったものだったらまったく笑い話にもならない。
「でも下着よりもっとすごいのがね、使用済みの……」
「かほる」
 寝転がって完全に休憩モードに入ろうとしているのをたしなめると、かほるは目だけでこちらをちらとうかがって身体を起こすとやれやれというふうに唇を曲げて雑誌をしまった。放り出したシャーペンを取り上げるとノートを抱え込むように机へ寄りかかりながらぼそっとつぶやく。
「貴子って昔からなんていうか……、ちょっと潔癖性っぽいところあるよね」
「そう?」
「男に対して不信感っていうかさ、無意識なのかもしれないけどたまに汚いものを見るような目で見てるときあるよ」
 そういう男にはね。でもそれはあたしのせいじゃなく男側の問題だと思うけどと思いながらも、脳裏にあるできごとがフラッシュバックしていた。うっかり思い出してしまわないよう意識して記憶の隅に押しやっていたのに、嫌な記憶に限ってどうしていつまでも忘れることができないんだろう。
 雑誌の表紙に踊っていたピンクのハートと「春だからときめきたい! 恋が始まるおしゃれアイテム」の大見出しが押し付けがましく目に焼き付いている。
 
***
 
「やっぱ、千草っていい女だよなぁ」
 新井田がねっとりと舐めるような視線を送りながらつぶやいて、またか、と俺はうんざりする。「いい女」というからっぽの紋切り型の文句はこいつに似合ってるとは思うけど。
「根性なしの杉村より俺のが絶対いい思いさしてやれると思うんだけどなあ。幼なじみかなんか知らねえけど、あいつらどう見ても釣り合ってないし。なあ、おまえもそう思うだろ? 三村ぁ」
 俺に話しかけてるってのはわかってたけどあえて無視していた。手中のストップウォッチを止めると仕方なく返事をする。
「貴子さんが素敵だってとこだけ同意しとく」
 ストップウォッチに表示されたタイムをスコア表に記入すると俺はそそくさと立ち上がった。
「おい、待てよ」
「お前のパートナーはまだ頑張って走ってるぞ。ちゃんとタイム測ってやれよ」
 中途半端に整ったルックスをお持ちのせいか、傲慢で思い込みが激しい性格の新井田と俺はどうも折り合いが悪い。だけど新井田の方は俺と自分を同じカテゴリーに分類しているらしく(女の子と寝た経験があるとか、それなりに女の子にモテるところとかがその理由らしい)、基本的にジェントルな俺と根底に男尊女卑の思想を持つ新井田とでは話が合うはずもなく、俺はいつも適当にあしらってごまかすんだけど、おめでたいことに本人はそのことにまったく気付いていないご様子。良く言えば素直、悪く言えばただの馬鹿だ。
 そう言えば一時期、新井田と貴子さんがちょっと噂になったことがあった。中学1年の時だ。その時俺は二人とクラスが違ったから詳しいことはわからないけど、貴子さんはすでに城岩中で1、2を争う美人(ちなみにもう1人は相馬光子だ、あの悪名高い)として有名だったから俺も名前と顔だけは知っていた。
 しかし2人を知れば知るほどあの貴子さんが新井田を選ぶとは思えなかった。このあたり直接新井田に聞いてみてもいいんだけど、あいつの話はたいてい五割ほど自分に都合のいいように脳内変換されているからアテにならないし、かと言って貴子さんに聞くのはハードルが高すぎる。となると残る選択肢はひとつしか残されていないので。
「新井田と貴子の噂?」
「うん、1年のときにちょっとだけあっただろ」
「ああ、あのことか……」
 口を歪ませて遠くを眺めるように視線を逸らせた杉村はその先を言いにくそうにしている。自分のことじゃないから勝手に話していいものかどうか……と顔に書いてある。
「どうせ新井田のでっちあげかなんかなんだろ?」
「……貴子はそう言ってた。新井田とはろくに話もしたことがなかったのにある日学校に行ったら同じクラスの女子に突然『新井田と付き合ってるって本当?』って聞かれたらしい」
「ふーん、でもどうやってそんな噂流したんだろうな」
「貴子は興味ないって言って深く追求しなかったみたいだから、詳しいことは俺も」
「でも上手く行かなかった?」
「あいつあんとき好きなやついたしな」
 そうじゃなくても無理だったと思うけどな、とひとりごちる。
「なんか言ったか」
「いやいや。その好きなやつって例の先輩?」
「たぶん。ていうかあれお前が教えてくれたんだっけな」
「あー、そういえばそうだったっけな。今でもその先輩のこと好きなのかな、貴子さんは」
「と、思うけど。気になるのか?」
「いつも気になるさ、貴子さんのことなら。お前だってそうだろ?」
「お前とは別の意味でな」
「一緒さ」
 左の眉を上げて笑うと杉村はそれ以上何も言い返してはこなかった。
 
***
 
 小さな市立図書館は自宅から自転車で15分ほどの距離にある。小学校三年の頃、たまたま学校の図書館にあったある作家の探偵物シリーズ読んでハマってしまい、市立図書館に全巻揃っていることを知ってそれ目当てによく通っていたのだけど、ある日を境にぱったりとやめてしまった。まだ半分ほどしか読破していなかったので続きがとても気になっていたのだけど、それを差し引いても足を向けるのをためらってしまう理由があったのだ。そうしてあれからいちども図書館には行っていない。今の自分なら取るに足りないことも、やわらかいところへ付いてしまった傷はけっこう後々まで残るみたいだ。たとえば乾き切る前のコンクリートにうっかり誰かが足跡を付けてしまったみたいに。
 
 男子二人、女子二人の四人グループを作り、それぞれ自由にテーマを決めて発表する。オリエンテーションの好きな理科教師が考えたその課題については別にいいんだけど、問題はそのグループのメンバーだ。女子はあたしと松井知里だけど、知里はあいにく風邪で休んでいる。
「なあ、千草、どうしよっかぁ?」 机の上に置いたあたしの手に触れるか触れないかというポジションに自分の手を置いて甘ったれた声を出しているのは新井田和志だ。ずいぶん前の例の一件からこちらずっとなれなれしく接してくる。別れた彼女とかにいやがらせとかするタイプっぽい。もう生理的に無理、この男。なのに一年のときからずっと同じクラスだなんて神様も相当意地が悪い。
「おい、貴子さん迷惑がってるぜ」
 と、こちらは三村信史。軽い口調とは裏腹に無表情で、新井田にもあたしにも視線をくれずに手元のノートへなにやら書き付けている。ノートの上の文字が飄々としたイメージとは違う、いかにも中学生男子が書きました風な悪筆だったのは少し意外だった。
「勝手に決めんなよ。そんなことないよな、なあ千草ぁ」
 語尾の小さい「ぁ」がとてつもなく不快。とにかくここは矛先を変えなくてはこっちの堪忍袋の緒が先に切れてしまう。
「さあ、どうしましょうか。ねぇ、三村くん」
 あたしの振りに「俺?」と驚いたような表情を見せた三村だったけど、一瞬にしていつもの演技っぽい笑顔を作ってそつなく答える。
「貴子さんの好きなことでいいよ。テーマだけ決めてくれれば資料はこっちで完璧に揃えてあげる」
「ずいぶんと大口叩くな。大丈夫なのかよ」
 新井田はにやにやしながら机に上半身を預け、めんどくさそうに寝転がり始めた。
「至れり尽くせりってわけね。でもあたしそういうの嫌なの。自分でやりたいわ」
「うん、貴子さんならそう言うと思ったよ」
 ちょっと意地悪くしたつもりだったのに三村はにっこり笑ってあっけなくそう返してきて、それに面食らったのはこっちだった。あたしが二の次を告げずにいると、三村は「じゃあ」と付け足して。
「センセー、図書室で調べものしたいんですけどいいですかー?」
 まるっきり能天気な声を教室に響かせた。
 
 図書館にやって来たはいいが、新井田がべったりと隣に貼り付いているので調べものどころではない。席を立ってもしつこくついてくるのでキリがない。かといって授業中なので外へ行くわけにもいかないし、仕方ないのでその存在自体を頭の中から消去することにした。話しかけられても聞こえない振りですませるのだ。たぶんそれが今のところベストでナイスなアイデア。
 そうしてしばらくすると調べものに集中し始めて(元々本を読むのは嫌いではないので)本当に新井田の存在なんかすっかり忘れてしまった。本を読みながら本棚の間を移動して、ちょうどいちばん奥の本棚と窓の間の狭い隙間に来た時だった。顔の横から突然腕が伸びて来て、あたしは本棚へ背中を押し付ける形で2本の腕に挟まれて動きを封じられてしまった。
「無視してんじゃねーよ」
 普段のあたしならここで皮肉のひとつでもかましてさっさと退散しているところだ。しかしなぜか今日はそれができなかった。口を開けても声が出ない。
「おい、いつもの勢いはどうしたんだよ。なんだ、怖いのか? 俺が」
 あからさまな優越感に口の端を歪めた新井田の顔が記憶の中にあるかつての男の顔に見えて身体がすくんでしまう。
「違うわ……」
 かろうじて絞り出した自分の声がかすかに震えていて、それがまた新井田を付け上がらせてしまう。こんなみじめな姿、よりにもよってこんなやつに見せてしまうなんて、嫌だ。絶対に嫌だ。
「おい、なにやってんだ」
 さっき「センセー」と言ったのと同じ、でも今はうっすらと威圧感のある声が頭の後ろから聞こえて、金縛り状態だった身体の緊張が解けた。左側にあった腕を三村が掴んで振りほどくと、その隙にあたしはもう一方の腕を払いのけてその場を離れた。
 その後2人がどういう会話をしたのかは分からない。しばらくして戻ってきた新井田はすっかりおとなしくなっていて、それ以後ひとこともあたしに話しかけてこなかった。三村も何事もなかったかのように振る舞っていて、あたしはそれにほっとしながらどこかばつの悪い思いをしたことがどうしても腑に落ちなかった。「何も怖くないぜ。恐れることはない」と、先輩の口癖を同じようにつぶやいてみたが、胸の中の黒いもやもやは消えてくれはしない。 
 
***
 
 あれから新井田はしばらく俺の様子をうかがっていたみたいだった。あの図書館での件を誰かに漏らされやしないかを心配していたんだろうが、悪いけどそこまで見くびってもらっちゃ困る。
「新井田くん、なにビクビクしてんの?」
 休み時間にそばを通りがてらからかい半分に尋ねると新井田は顔を引きつらせて取り繕った。
「何が?」
 予想通りの反応におもしろくないなと思いながら肩に手を置いて(まるで会社の上司が部下に首切り通告をするように)そっと囁く。
「安心しろよ。俺はおまえと違ってくだらない噂を流す趣味はないぜ」
 今度は顔を真っ赤にして反論しようとしたが上手い言葉が出て来ないのか、ただ餌をねだる金魚のようにパクパクと口を開けているだけだった。
 新井田なんかこのまま放っておけばいい。はなから興味もそんなになかったし。それより気になるのは貴子さんの方だ。あの時の貴子さんはあきらかに普通じゃなかった。いつもの隙のない、強くて美しい彼女じゃなかった。俺が知っているのが彼女のほんの一部分だったとしても、あの様子は尋常じゃなかった。セーラー服越しの小さな肩を振るわせ、目に不安げな表情をたたえて言葉を失って、何かに怯えているように見えた。
 怯えていた? あの彼女が?
 
「あれ、まだ残ってたの」
「……日直だから」
「そっか」
 下校途中、次の日に練習試合があるのをすっかり忘れて教室にシューズを置いてきてしまったことに気付いた俺は一緒に帰っていた豊を先に帰して一人学校へ戻ると彼女がいた。貴子さんが俺のことを快く思っていないのは知っているのであえてこちらからは話しかけない。俺の軟派なプレイボーイイメージ(実際はそう言うほどでもないんだけど)に嫌悪感を抱いている女の子はうちのクラスにはけっこういると、杉村がつるっと漏らしたことがある。今思えばその情報の出所もきっと彼女なんだろう。
「三村くん」
「なに」
「こないだはありがとう。助かったわ」
 こないだ?と聞き返しかけて図書室でのことかと気付く。
「いや、俺のほうこそごめん」
「どうしてあなたが謝るの? 悪いのは新井田であなたはあたしを助けてくれたんじゃない」
「でも俺と同じ男がやったことだ」
 そう言って貴子さんの方へ顔を向けると、彼女は初めて目を逸らさずに俺を見てくれた、ように感じたのは気のせいだろうか。
「貴子さんでも怖いものとかあるの?」
「ないように見えるの?」
 質問に質問で返した彼女の目に宿る光がほんの少し俺を責めている。俺の意図を探ろうとしている。あっさり「ないわ」なんて答えるものかと思っていたが、そうか、このようすじゃ、やっぱり何かあるんだな。
「いやいや、そんなことはないよ。中学二年生の女の子ならあって当然だけど」
「じゃあどういう意味かしら?」
「単純に個人的な興味」
 その俺の答えにあきらかな嫌悪感を露にした貴子さんは小さくひとつため息をつくと。
「あたしは見世物じゃないわ」
 そしてそのまま席を立とうとする彼女の前に俺は慌てて歩み出てそれを牽制する。
「ストップ、ストップ。言い方が悪かった。別にそういう意味で言ったんじゃない」
「見た目だけで勝手なイメージを押し付けられるのって迷惑」
「いやあ、でも見た目って重要だから」
「男がこうあって欲しいっていう見た目は、でしょ? あたしはそういうのに甘んじるのは嫌なの」
 きっぱりとした物言いに俺は目をそらせて「あー」とから返事をした。
「だってそれって自分がないってことだもの。そうでしょう? そんなの美しくないわ」
 いやいや、今でも十分お美しいですけど?とチャラけて返したいところだったが、そういう雰囲気でもなかったので口には出せなかった。
 彼女が傲慢にもこう言えるのはきっと彼女がはなから美しいからだ。それで彼女を責めるつもりはないが、他の女の子たちが聞けばあまりいい気はしないだろう。彼女が女の子の友達といるところをほとんど見ない(例外として隣のクラスの幼なじみの女の子を除けば)理由が少しわかった気がした。
「もういいかしら?」
「ん? ああ、ごめん」
 スカートをひらりと翻して彼女が足早に俺の横を通り過ぎるとき、セーラー服の襟元から覗いた首が思ったよりも細くて白いことに気付く。茶色に染められた髪やゴールドのアクセサリー類が醸し出す少し攻撃的な雰囲気とは正反対の、とても無防備なそこへ思わず手を伸ばしたい衝動に駆られたが、もちろん実行はしなかった。そんなことをしたら向こう一年は口をきいてもらなさそうだから。
「男が全員新井田みたいなやつばっかだと思わないでよ」
 扉に手をかけた貴子さんの後ろ姿に声をかける。彼女は顔だけをこちらへ向けて。
「そんなこと思ってないわ」
 斜め45度の角度から見た顎のラインが美しい。ややキツめの目に真っすぐに見据えられるとドキリとしてしまう。
「君のすぐそばにいるだろ。そうじゃない男が」
 彼女は目を丸く見開いてしばらくの沈黙。そして「そうなのかしらね」とつぶやくとにやりと皮肉な笑みを残して彼女は去った。夕日に照らされた茶色の髪が残像となっているまでも目の裏にぼんやりと浮かび、まばたきをするたびに鮮やかに蘇っては、消える。
 おそらく彼女は俺の言葉の意味を誤解している。しかしそれはごくささいなことだ。
 ずいぶん前の美術の時間、彼女の美貌をデッサンに使う腕のない石膏像に例えた奴がいた。そいつが似ていると言ったのはギリシャ神話に出てくる美と愛とそして軍神でもあったと言う女神像で、エーゲ海で19世紀初頭に発見されたものが元になっている。しかしその両腕は発掘された時すでに欠けていて、長年多くの研究者たちがその復元に情熱を燃やしているそうだが、いまだに定説となりうるだけの根拠を持った決定的なものは造り出されていない。
 
 ***
 
「おまえ貴子さんが泣いてるとことか見たことある?」
「ない。俺が泣いてるとこなら何度も見られたことあるけど」
 杉村の答えに俺がしつこく声を上げて笑っていると「笑いすぎだ」とたしなめられた。
「言っとくけど昔の話だからな。小学校低学年とかそんな」
「いやあ今だったらむしろ羨ましいです」
 彼女の腕の中で泣く自分を想像しようと思ったが、残念ながらイメージの中の彼女には腕がなかった。
「わかんねぇよな……」
「なにが」
「女の子」
「おまえでもそんなこと言うんだ」
「言うさ。あーあ俺にも美人の幼なじみがいればなぁ」
「でも近すぎると話せないこともたくさんあるぜ 」
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんだよ」
「じゃあ俺もおまえも貴子さんのことはわかってないってことだ」
「たぶんな」
「したらイーブンだ」
「え?」
「俺が左でおまえが右」
「なんのことだ」
 苦笑いで返す杉村の腕も俺のそれもすっかり日に焼けて黒い。石膏像の白い肌とは似ても似つかないが、想像するのは自由だろう。
  想像の余地があるということは喜ばしいことだ。そしてそれが正しいかどうかということはそんなに重要じゃない。きっと。
 
 ***
 
 二回目のグループ学習には松井知里も参加した。
「風邪はもういいの?」
「うん、もう大丈夫」
 三村と一緒のグループだと聞かされたときの知里の嬉しそうな顔を思い浮かべて思わず笑みがこぼれる。こうして机を挟んで向かい合っている時も知里は落ち着きなく目線を泳がせている。
「じゃああたし新井田と組むから、知里、三村と組みなよ」
「え、でも……」
 困惑と期待の入り交じった表情で返した「でも……」は、『三村と組むのなんて緊張する』が七割、『貴子、新井田のこと嫌いじゃない』が三割、といったところだろう。
「あいつ頼りになるわよ、案外」
 しまった「案外」とは余計だったか。と思ったが知里はそれどころではないようだ。知里を三村の前の席へ移動するよう促して、自分は新井田の前へ移る。背筋を伸ばして新井田に向かい合うと、胸の中にずっと居座っていた黒いもやもやはいつのまにか無くなっていた。なんだ、こんな簡単なことだったのか。全然たいしたことじゃない。深呼吸をひとつすると薬品臭い科学教室の香りが鼻孔をついた。
 しゃくだけどこれは確かにあいつのおかげ。だけど言ってもきっとわからないだろうから心の中だけでそっとお礼を言っておく。
「よろしく」
 そして意外な展開にアホ面下げてぽかんと口を開けている新井田にあたしはとびきりの笑顔を投げてやる。
 

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