UMBILICAL

 天気予報は大ハズレ。雨が降って大嫌いなマラソンがなくなったのはラッキーだったんだけど。

「今日は保健の授業に変更します」
 教壇の上から保健担当の女性教師がそう告げると一斉に教室がざわめいた。
 あ-やだやだ。こんなことなら休むんだった。なんで来ちゃったんだろ、といまさら後悔してももう遅い。授業は始まってしまった。生理痛だとかテキトーこいて保健室へ行く振りでそのままバツくれるって手もあったけど、傘もないし、雨の中歩いて買ったばかりの靴が濡れるのも嫌だったのでその選択肢は捨てた。まあいい、小一時間もおとなしく黙って空気になっていればすむことだ。
「命の誕生は神秘的でとても尊いものです。で、どのようにして子供ができるかと言うと」
 女教師は丸まったポスターを広げて黒板に貼った。ポスターは使い古されて黄ばんでいる。そこに描かれた時代錯誤のイラストを見て思わずあたしは苦笑してしまった。ていうかいつのだ、それ。
「お父さんの精子がお母さんの卵子と出会って、赤ちゃんの種になります」
 お約束の《おしべとめしべ論》で授業は進められた。これくらいが田舎の中学校の性教育の限界だと思うのでそれはまあいいんだけど、ひとつ肝心なことがすっぽり抜け落ちてますよセンセイ、とあたしは心の中で手を挙げ発言した。
 ちゃんと教えておかないと。愛情なんかなくてもセックスすれば子供は作れるってことを。なんならあたしが代わりに教えてあげましょうか?題して《光子先生の楽しい保健体育》・なんて、意外としっくりくるじゃない、裏モノAVのタイトルみたいで。
「お腹の中でお母さんと赤ちゃんは膳帯という管で繋がっています。いわゆるへその緒です。赤ちゃんはお腹の中にいる間、ここから栄養をもらうわけです。へその緒はお母さんと赤ちゃんが約十ヶ月の間繋がって生きていた証拠なんです。だから桐の箱なんかに入れて大切に保管したりしますね」
 机につっぷして、ほとんど眠りかけていたあたしはそのフレーズにぴくりと反応し、目を開いた。
 ――へその緒。そういえば昔、あの女と一緒に住んでいた頃、一度だけそれらしきものを見かけたことがあった気がする。あれ、どうしたんだっけ?
「生まれた赤ちゃんからは瞬帯が切り離されます。つまり、お母さんから離れて自分の力で生きていくことになるんですね」
 自分の力でねえ。まだまだおしりに卵の殻のくっついたかわいいひよこちゃんたち、と教室内のクラスメイトたちを見渡していると滝口優一郎と目が合った。得意のスマイルで微笑んでやると、あちらさんは顔を真っ赤にして教科書に顔を埋めた
「ただいま」
 格子状の木枠にすりガラスがはめ込まれた古い引き戸はどれだけ慎重に開け閉めしてもがらりと音を立てる。こっそり抜け出すなんて芸当は不可能だ。でも出入口はここ一カ所しかなく、だからそういうときあたしははなからこの家に戻らないことにしている。
 最初のうちはそんなあたしの行動に保准者らしく怒ったり注意したり閉め出しを食らわせたりしていた家の主たちも、いくらやってもまったく更正の兆しがないのを理解するとあきらめたのか何も言わなくなった。夕食もいるといわなければ用意されないし、お風呂だって入ると言わなければ勝手に抜かれている。もちろん、おこづかいなんてものは一度ももらったことがない。つまりあたしは空気と同じだった。そこにあるが誰も気にかけない。
「おかえりなさい」
 洗濯物をたたむ、一応、今の法律上の母親の水分の抜け切った髪を黒いゴムでひとつに括ったスタイルに生活感が溢れていてあたしはうっとなる。それはあきらかに《降りた女》の陰気くささだった。その点で言えばあの女は《降りて》いなかった。むしろかたくなに女であろうとしていて、その維持費なのか常に金の匂いを細っていた。刷りたての紙幣のインクや紙の消潔な匂いなんかじゃなくて、何人もの人間の手垢に塗れた古札の匂いだ。業と欲の匂い。あの女のそばにいることで、ダダでは女は女でいられない、とあたしはかなり早い段階で学んだ気がする。
 
「あの」
「なに?」
 あたしの呼びかけに女は視線もくれず答える。
「あたしがここに来た時に持って来た荷物ってまだありますか」
「あるけど、どうして?」
「ちょっと見たいものがあるんです」
 あたしはわざと正直に理由を言った。女はふうと溜め息をつき、眉間に殿を寄せて面倒そうに立ち上がると奥の和室の押し入れから段ボール箱をひとつ持って来た。
「見たらちゃんと片付けておいてよ」
「わかりました。ありがとうございます」
 段ボール箱を持ったままおじぎをしたが女は見てもいなかった。
 
あらためて自分の部屋で箱を前にしてみるとずいぶんと小さいなと感じる。記憶の中ではもうちょっと大きいイメージだったけど。ああ、これはきっとあたしが大きくなったってことなんだわ、と無理矢理納得する。
 箱を閉じているガムテープは劣化し粘着力がほとんどなくなっていてすんなりと剥がれた。それを丸めてゴミ箱に捨てるとそっと蓋を開ける。
 上から順番に取り出す。A4の封筒とよくわからない役所向けの書類、戸籍謄本、預金通帳―残高は三十八円―、ビニールカバーのかかった母子手帳、産着?のような小さな赤ん坊用の洋服、林家と書かれた空の香典袋、そして最後に箱の底から例のブッが現れた。
 それは教師が言ったような桐の箱などではなくただの安物のプラスチックのケースだった。透明の蓋には金インクで《万博記念メダル》と印字されている。片手で取り出し、勉強机の上に置いた。椅子に座り開けようとすると蓋は予想以上に固くへその感触に今まで一度も開かれることはなかったことがわかる。
「よかったわ、大事にされてなくて。ちょっと心配しちゃったじゃない」
「でかけるの?」
 玄関で靴を履いていたあたしに女が声をかける。普段は恐ろしいほどにいろいろなことから目を逸らしているくせにこういうところだけ妙に敏感なのよね。でも行き先を訪ねてるんじゃないことくらいわかっているので。
「ごはんもお風呂も要りません」
「そう」
「段ボール、片付けておきましたから」
 今度は返事もしなかった。あたしはスパンコールがちりばめられた白い小さなバッグを手に取るとそのまま家を出た。
 
「おじいさん、あたしも燃やしたいものがあるんですけど、いいですか?」
 いつも夕方になると川くりでたき火をしているおじいさんのところへ行って、できる限りかわいらしく純情ぶって言う。おじいさんは目があまりよくないらしく、眼鏡の奥の濁った目を細めてあたしを見た。
「ああ、いいとも。ここへお入れなさい」
「ありがとうございます」
「おじいさん目がお悪いの?」
「ああ、"白そこひ"なんだよ」
「しろそこひ?」
「今は白内障って言うのかな」
「ああ、白内障。それなら知ってます。うちのおばあちゃんがそうだったから」
 我ながらこの咽嵯に口をついて出る嘘の完璧さには感心する。おばあちゃんが白内障? 初耳だ。だが、そんなあたしの黒い腹の内になど微塵も気付かないようすでおじいさんはそうかいそうかいと領いてくれた。
「で、何を燃やしたんだね?」
「ごみです」
 そう口に出してもちっとも胸が痛まないあたしはこれでまたひとつ自由になる。
 

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