哥(うた)
明治の思想家中江兆民はかつて漢文の魅力についてこう語った。「簡潔にして力強い」
それはゆるぎなさと同意でもある。
杉村の居ずまいは凛としている。道場に通っているせいだろうかすっと伸びた背筋は見ていて気持ちがいい。その長身には窮屈だろう学生机と椅子に座っているときでもそれは崩れることがない。
教台に立つ後ろ姿を見ながら三村はぼんやりとそんなことを思っていた。静まり返った教室にカッ、カッというチョークの音が響く。
指定された漢文の問題を完璧に解いて杉村は席に戻ってきた。椅子に座り姿勢を正すのを待って斜め後ろから三村は小声で話しかけた。
「 レ点とか上中下点とか意味わかんないんだけど」
杉村は一瞬目線を寄越したがすぐに前に向き直った。
「あれ、無視ですかー?」
あからさまに三村は下敷きをパタパタと振って注意を促した。
「授業中だぞ」
「なあ、なあって」
すでに半分面白がっているようだ。表情からそれが読み取れる。
「わかった、あとで教えてやるから」
三村はにやりと笑いすんなりと身を引いた。
終礼が終わっても教室にはまだ大勢の生徒たちがたむろしていた。ざわざわとした声が満ちていて落ち着いて勉強するのに適した環境とは言えない。
「な、ウチでやろっか?」
「いや、ここがいい」
三村の誘いを杉村はきっぱりと断わった。
「おまえの家に行くとロクなことにならないからな」
「ロクなことって?」
ニヤニヤしながら尋ねる三村を真顔で見返し、杉村は机の中から国語の教科書と筆箱を取り出した。
「おまえが考えてるようなことだ」
「つまんねぇの」
「つまるもつまらないもあるか。やる気ないならやめる」
「あー、うそうそ、撤回撤回」
まったく冗談の通じないヤツ、と三村はひとりごちた。
「漢文は漢字だけど日本語とは根本的に文法が違うんだ」
さすがに好きなだけあって杉村の講習は非常に分かりやすい。
「例えば」
言って杉村は要らないプリントの裏に“春眠不覺曉”と書いた。杉村は性格のままの生真面目な字を書く。こころもち縦に長い楷書体だ。ザラ半紙の上を走る鉛筆の音はカツカツという固い音とサラサラという滑らかな音が交互に入り乱れている。三村は杉村の説明そっちのけでそれにじっと聞き入っていた。三村は焦点の合わない目でじっと杉村の手元を見つめている。
ふと三村の脳裏にある情景がよぎった。いつか古本屋で見かけた外国の映画情報誌に載っていた映画のワンシーンで、男が女の背中に筆で文字を(漢字ばかりの詩のようなもの)を書いている写真だった。
「主語、動詞、目的語の順に…おい三村聞いてるか?」
「俺おまえの字って好き。クソ真面目で融通がきかなそうで、でも頭のてっぺんからつま先まで一本筋が通っててストイックな、まんま杉村って感じでさ」
「なに言って……」
杉村が言葉を紡ごうとするのを遮るかのように校庭のスピーカーから耳に馴染んだ曲が流れ出した。五時だ。ずいぶん使い込んでいるのだろうテープは劣化し音質は最悪だった。
「これドヴォルザークの曲って知ってた?」
目だけを杉村へ向けて三村が尋ねた。
「いや。でも歌詞日本語じゃなかったか?」
「うん。あれは詩だけあとからつけたんだって」
時計を確認するために三村が振り返るといつの間にか他の生徒達は全員帰ってしまっていた。レースのカーテンからうっすら覗く空も夕焼けに変わっている。
「なあ」
「ん?」
「字、書いて」
杉村は机の中からもう一枚新しいプリントを取り出そうと身を屈めた。
「違う」
机に差し入れようとしていた手を三村の左手が掴んで止めた。わけがわからないというように目を見開いて戸惑う杉村の目を捉え、三村はゆっくりと言った。
「俺の身体に」
杉村は三村につかまれているその場所から響く鼓動を全身に感じていた。まるで心臓がそこへ移動したかのように。杉村の耳に届くドヴォルザークがかろうじて時の流れを自覚させる。この音がなければ永遠かと思われたかもしれないほどの一瞬。
「水性のペンがない」
二人にとって思いがけない言葉で沈黙を破ったのは杉村だった。
「油性でもいい」
「いや、それは」
「大丈夫、土日で消えるよ」
「消えなかったら?」
三村は杉村の腕からゆっくりと手を離した。そして筆箱をひっくり返すと“水性”と書かれたラベルのついた赤いペンが滑り出た。
「あるじゃん」
三村はそれをつまみ上げ手の中で器用にくるくると回すと杉村に放り投げた。杉村はそれを片手で受け取った。どうやら三村は本気らしい。
制服はつい2日前に衣替えで冬服に切り替わったばかりだ。しかしまだまだ日中は30度を超す日も多く上着を着ている生徒はほとんどいない。その中で杉村は学生服のカラーまでぴっちり閉めた暑苦しい格好をしている。
三村は白いカッターシャツの腕の部分を折り返して肘の下あたりまでめくり上げ、杉村の目の前に差し出した。
「何を書けばいいんだ」
「なんでも」
そう言われてもとつぶやきながら杉村は考えた。そうしてしばらく考えた後、左手で三村の腕を支えると右手で字を書き始めた。
肌の上をペンがすべる感触に三村は鳥肌立った。杉村の視線をそのまま含ませたようにインクが滲み出ては肌に沈着していく。魔法のように肌の上に現れる赤い文字。それを追っているうちに三村は触覚だけが機能しているような錯覚に陥った。ときおり鳴るペンのキュッという音に合わせて思いだしたように三村はまばたきをする。
窓から差し込む夕日が杉村の左頬を照らし出し産毛を金色に光らせている。形の良い頭の上でゆるやかに弧を描く杉村の黒い髪は間近で見ると意外に柔らかそうだった。空いている方の手でそれに触れようと手を上げると杉村に止められた。
「じっとしてないと上手く書けない」
三村は素直に手を引っ込めた。
不適な笑みを浮かべて杉村は三村の腕から手を離しペンのキャップを閉めた。
「おまえにぴったりの詩だ」
「どういう意味?」
「それは自分で調べろ。宿題だ」
いつの間にかドヴォルザークは止んでいて、かわりにムクドリの大合唱が遠くに聞こえる。空を見上げると闇に飛んで行く群れが見えた。
「チクショウ、あいつこんなの書きやがって……」
自室に戻り三村は唸っていた。ほとんど新品に近い国語の教科書を開いてその意味を確認すると教科書を閉じて足元の鞄の中にぶち込んだ。
「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉已に秋声」
流暢に読み上げる杉村の後ろ姿はいつもとおなじように凛としている。
「まったくムードもクソもない」
いまだうっすらと腕に残る漢詩を見ながら三村はつぶいやいた。あの背筋を骨抜きにするのは並大抵のことではなさそうだ。