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ピアノの音が聞こえる。音楽室からだ。窓から差し込む橙の光を背に受けてピアノや椅子や机がそのシルエットをくっきりと浮かび上がらせている。椅子に座って鍵盤を叩く音の主は見慣れた形をしていた。その後ろ髪の長い特徴的なオールバックの影に声をかけるとピアノの音がぴたりと止んだ。
「ボス、よくピアノ弾いてますよね」
「弾きたくなる時があるんだ」
「へえ、どんな時に?」
「たとえば」
そう言って桐山は考え込んだ。こめかみにそっと指を当てて。
桐山はたまにこのポーズで考え込むことがある。しかし特別変わった動作というわけでもないのでそれについて充が不可解に思うことはない。
「わからないことがあるときかな」
その答えが充にはわからなかった。何がですか?と聞き返すことは容易だが、彼はそれをしない。
「そういえばあの日は絵を描いてましたよね。美術教室で」
あの日?と問うて一瞬考えたのち、桐山はああ、と理解した。
「あの日は絵を描きたいと思ったんだ」
「なぜ?」
桐山はまた同じポーズで考え込んだ。さっきよりも長く思慮している。
「あ、別に無理に答えなくてもいいんすけど」
沈黙に我慢しきれず充がはぐらかそうとすると桐山は顔を上げてぽつりとつぶいやいた。あの時と同じとても静かな声で。
「空が」
怪訝な顔をする充をよそに桐山は続けた。
「青かった」
充は美術教室から出てきた桐山の手に絵筆が握られていたことを思いだした。そこには確か群青の絵の具が付いていた気がする。
「空を描こうと思ったんですか?」
「そうなんだろうか」
まるで他人事のように答えた。
「その絵、見せてくださいよ」
「いやそれは無理だ」
「いいじゃないすか。ボス絵上手いんですから」
「いや、あれはあのあとすぐゴミ箱に捨ててしまったんだ」
その桐山の答えに充は言いようのない奇妙な感覚を覚えた。ふつう絵を描きたいと思うのは何かに感動したりしたときなどだと思うのだが、彼はそうではなかったというのか。放課後の美術教室にひとり残ってまで描いた絵をその直後いとも簡単に捨ててしまえる桐山の気持ちはやはり充にはわからない。
「じゃあもしあの日雨が降ってたら?」
「絵は描かなかったかもしれない」
「そしたら俺とは」
「出会わなかっただろうな」
あっさりと言い切った。
仮にそれが自らの意志でなかったとしたら桐山は選んですらいないことになる。だとすればあの出会いの日から今日まで分かれ道を選び進んできたのは充だ。今こうして共に居ることすらあるいは。
そのことに気づくと充はぐっと唇を噛み締めた。窓から差し込む夕日に照らされていつもよりはるかに美しく見える桐山の目を注意深く探ってみたが、ふたつの黒い瞳には自らの姿がただ淡々と映っているだけだった。
選びとられなかったもうひとつの道の先には何があったのだろうか。そしてこの道の先には何があるのだろうか。