Father

 謹慎開けの初日、つつながく授業を終え、鼻歌交じりで部活へ向かう桜木の背中を見送った。ひと仕事終えた実感を得て机の横に吊った薄い学生鞄を手に取り、壁時計に時刻を確認しようと顔を上げたときだった。
 教室内に残っていた生徒が、やけにざわついていることに気づく。視線は前扉へ集中していて、そこに誰かいるようだった。自席から様子を窺っていたら、扉近くにいる二人組の女子がやや不安そうな表情で水戸を振り返った。ややこしい話じゃねえだろうな。謹慎開け早々、さすがに勘弁してくれよ。またバイトを無断欠勤するハメになるのはごめんだ。可能性のありそうな相手の顔を思い浮かべながら席を立つ。それとほぼ同時に、扉の向こうから人影が現れた。思いがけない人物の登場に水戸は目を丸くする。
 訪問者は赤木だった。赤木の視線は一直線にこちらへ向かっている。目的が自分であることはすぐにわかった。水戸はもう一度、壁時計へ時刻を確かめた。幸い、バイトまでまだ少し時間はある。ただ、仮に時間がなかったとしても、遅刻してでも聞くべき話に違いなかった。
 下級生の教室へ来ることを嫌がる上級生は少なくない。ただでさえ無用な注目と視線を浴びるというのに、それが赤木であれば、なおのことそうだ。目立って仕方がない。妹を通じて別の場所へ呼び出すことだってできただろうに、わざわざ自分で出向く方法を選ぶあたり、不器用というか、要領がよくないというか。実に赤木らしいと感じる行動で、水戸は好感を持った。

「どうしたんすか。また花道がなんかやらかしましたか」
 誰も居なくなった教室の教卓前で赤木と向かい合う。あらためて、デカいなと思った。
「いや。この間の礼と詫びがまだだったと思ってな。謹慎が明けたらすぐに来るつもりだった」
 赤木は水戸の目を真っ直ぐに見て言った。
「この間はすまなかった。あそこでお前が機転をきかせてくれなかったら、今ごろバスケ部はどうなっていたかわからん。事の発端は俺たちが三井を止められなかったことだ。お前たちにすべての泥をかぶらせて本当に申し訳ないと思っている。本当に助かった。あらためて礼を言う」
 一度も言葉をつかえさせずに一気に言い切り、赤木は両手のひらを腿に添えて深々と頭を下げた。
「やめてくださいよ。ゴ……赤木さん」
 ついあだ名が口をついて出そうになる。桜木が日に何度も赤木の話をするせいだ。
「俺たちのためじゃなく、桜木のためにしたことだとはわかっている。ただ、これは俺のけじめだ。勝手なことを言うようだが、どうか気持ちを汲んでほしい」
「それとこれは同じことじゃないですか。少なくとも俺の中ではそうです」
 水戸がそう告げて、赤木がようやく顔を上げる。
「そう言ってもらえるとありがたい」
 初めて体育館で赤木と桜木の試合(と呼べるようなシロモノでもなかったが)を見た時は、まさかこんなことになるとは思いもよらなかった。フラれてもフラれてもめげずに好きな女の尻を追いかけ回し続けたことも無駄ではなかったのかもしれない。そう思うと少しおかしいような気分になって、水戸は口の奥で笑いを噛み殺す。
「どうですかアイツは。赤木さんから見て。見込みありますか」
「ああ。桜木は湘北バスケ部にとってもはや欠かせない存在だ。ゆくゆくは俺の後を継いでもらいたいと思っている。……あ、これは桜木には内緒にしておいてくれ。調子に乗るからな」
「はは、そうっすね」
 背後に並んだ窓から差しこむ西日が、水戸の影を長く伸ばしている。その先には赤木の影があって、二つは微妙にズレながら重なっている。今、何時だろうか。そろそろバイトに行かなくては。
「アイツを、花道のことをよろしくお願いします」
 今度は水戸が頭を下げる番だった。ひと呼吸おいたあと、下げた頭の上で「ああ」と声がして、水戸は顔を元の位置へ戻す。
「なにか?」
 目の前で赤木が戸惑ったような表情を浮かべている。特におかしなことを言ったつもりもしたつもりもなかったのだけれど。
「あ、いや。……キャプテンをやってると、たまに生徒の親御さんと話をすることがあるんだが、今、なんとなくそれを思い出した」
「え?」
「お前がまるで桜木の親みたいだと思ってな」
 赤木の言葉を引き金にして、桜木の父親にまつわる決して忘れることのできない出来事が、水戸の脳裏によみがえる。

 少し昔のことだ。
 桜木の父親との思い出はそう多くない。だが、その少ないどれもが強烈に記憶に残っている。どこへ行っても鼻つまみ者だった水戸たちにも偏見を持たず、分けへだてなく接してくれた大人の一人だったからだ。初めて会った時「君たちが花道の友達かあ。父です。これからも花道をよろしく」と人なつっこい笑顔を向けてくれたことは今でもよく覚えている。この人が桜木を育てたのなら納得できると思った。人間として出来た人だった。そのせいで、人より損をすることが多い人生だったようだが。
 あの日も桜木の父親が、臨時収入が入ったから焼き肉を食べに行こうと誘ってくれて、現地で待ち合わせる予定だった。だけど、いつまで経っても二人が来ないから、水戸が迎えに行ったのだ。家に向かう途中、けたたましいサイレンの音がして、赤色回転灯を点灯させた救急車とすれ違った。まさかそこに桜木たちが乗っているなんて、夢にも思わなかった。自宅は留守で、近所の住人らしき人たちが数人、周りに集まっていた。声をかけ、何があったんですかと尋ねたら、一番年上に見えた女性が「あそこのご主人が倒れたみたいよ」と言って、桜木の部屋を指で指した。一気に体が冷たくなって、めまいがした。血の気が引くというのはこういうことなのかと思った。
 原付を取りに店へ戻り「何があったんだ」と聞いてくる大楠たちを振り払って、近くの病院を手当たり次第にあたった。ようやく見つけた桜木は「親父が」と言ったきり、ただ泣くばかりだった。大きな体で自分にすがる桜木にかける言葉はなく、ただ背中をさすってやることしかできなかった。

 赤木に託した言葉は自分の言葉ではない。あの時、桜木の父親が自分に言ったことを代わりに伝えているだけだ。
「そんなに立派な人間じゃないですよ。俺はアイツのただのダチです」
 褒められるような生き方はしていない。ただ、恥じるような生き方もしていない。
「そうだな。スマン。変なことを言った。忘れてくれ。あ、いや、決して、お前が立派な人間ではないと言う意味ではなくてだな。ようするに、つまり」
「はは、大丈夫ですよ。わかってます。じゃ、あらためてアイツのことよろしく頼んます」
 赤木はもう一度「ああ」と言って教室を出て行った。体育館に練習を観に行きたい気分になったが、バイトをドタキャンするわけにはいかない。
「さて、行っか」
 鞄を肩に引っかけて教室を出る。沈みかける夕陽が窓から差しこんで、廊下の壁一面をオレンジ色に染め上げている。
 県大会まで一週間。きっとあいつはまだまだ大きくなる。なにせ、あの赤木のお墨付きだ。その成長を見ていられる間だけはどうか、家族に一番近いダチでいさせてほしい。


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