A firm friendship
しつこく着いて来ようとする清田と桜木をのぞみ124号に押し込み、窓にへばりついて何やら叫んでいる(申し訳ないが声は聞こえない)二人をホームから手を振って見送ると、牧はようやく待ち合わせ場所へ向かうことができた。牧が名古屋へ足を運ぶのはこれで二度目だ。牧はホームから改札へ続く階段を下りながら(そうだ去年はここを藤真と一緒に歩いたんだ)と一年前の自分を回想した。残念ながら今年は一人でここへ来ることになってしまったが。
牧の信念のひとつに『勝負に絶対はない』というものがある。事実そうだと思うのだが、藤真が今ここにいない事態を可能性として想像できていたかと問われたら牧は自信を持って首を縦に振ることができない。何と言っていいものか牧自身表現に困ってしまうのだが、あえて言うなら(友人としての藤真と選手、もとい好敵手としての藤真がそれぞれ別に存在しているような感じ)と牧は誰に言うでもなく一応の結論を導き出した。要するにその二人の藤真の間にぽっかりと大きな溝のようなものが隔たっていて、それらを挟んで両者が全く乖離しているように感じることがあるのだ。そんな風にぼんやり物思いに耽りながら歩いていると、いつの間にか牧はJR名古屋駅の駅舎を出てしまっていた。それに気付いた牧はすぐさま踵を返す。
予選を終えた諸星はほんのわずかな時間の合間を縫って観覧席に居た牧のところへやってきた。そして『そこで待ってて』と待ち合わせ場所を指定してきたのだが、牧にはその指定された場所がどこなのかわからなかった。しかしそれは位置がわからないというより諸星の放ったある言葉が漢字に変換できなかったと言った方が正しい。牧はすぐにその点を追求しようとしたのだが、それよりも早く諸星が『じゃああとで』と言い残して去って行ってしまったものだから、結局謎のフレーズを手渡されたまま困り果ててしまったのだ。しかし隣の清田と桜木に聞いてみたところでまともな答えが返ってくるはずもないだろうと踏んだ牧は、仕方ない駅員にでも聞くかと諦めのため息をついたのだった。
新幹線の北口改札に立っている案内係の駅員に牧は『すいません』と声をかけた。
「あの、メーエキってどこですか?」
牧の質問に駅員はきょとんとした表情で瞬きを繰り返している。そして真顔で答えを待っている牧に微笑みかけるとこう返した。
「ここですよ」
牧が変換できなかった『メーエキ』という単語は『名駅』だった。同名の地名も別に存在するのだが、通常愛知県民が『名駅』と言ったら『JR名古屋駅周辺』のことを指すのだと駅員は言った。さらに待ち合わせ場所までのルートも丁寧に教えてくれたのだった。
『桜通口を出ると目の前に地下へ続く階段がふたつあります。その左側を下りてください。そのまま直進すると『ユニモール』という地下街に入るのでそこをまた真っ直ぐ行ったところが『アートプラザ』です』と言った駅員も実は名古屋出身者ではなく(奇しくも神奈川県出身だった)、『わたしも初めて来た時はわかりませんでしたよ』と牧に共感してくれた。見知らぬ土地で同郷の人間に出会うと嬉しいものだ。なんとなく心のどこかで微かな心細さを感じていた牧は思わず笑みを浮かべて駅員に丁寧に礼を述べた。
そうして無事指定場所に辿りついた牧は四方それぞれ外向きに配置されたベンチの一番手前に座った。今自分が歩いて来た方向を見渡せるここなら向こうから諸星がやってきたことが一目でわかると思ったからだ。背後にはベンチの真中に銅像鎮座している。特に興味もなかったが、手持ち無沙汰な牧はその像の前に掲げられている説明文に視線を落とした。像のタイトルは『舞台の麗人』とあり、その言葉の意味が理解できなかった牧は意図せずそのまま続きを読み始めてしまった。後ろを向いてしまったらここに座った意味がないのだが、知らないことを知らないままに出来ないのは彼の性格なので仕方がない。
そうこうしているうちに後ろから肩を叩かれた。はっとして振り返るとそこには諸星が立っており、試合終わりなのだから当然ではあるが上下校名入りのジャージといういでたちで大きなスポーツバックを肩にかけている。約一年ぶりに会ったにもかかわらず、相変わらず人懐こい笑顔を惜しみなく向けてくる諸星に牧は安心感を感じた。
「一人? あのガキンチョ二人は?」
「先に帰した。あいつらがいたら落ち着いて話もできんからな」
牧が苦笑いでそう言うと諸星も『そうだな、ちょっと見ただけだけどたしかに二人ともそんな感じだったな』と笑った。
「『名駅』って名古屋駅のことだったんだな。あれは地元の人間じゃないとわからんぞ」
牧が不満そうに漏らす。
「あっ、そうか。ごめん、ごめん。つい。でもよくたどり着けたな」
「駅員に教えてもらったんだよ。『ここですよ』って笑われた」
「ここ」
諸星がそう言って指差したのは待ち合わせ場所から少し歩いたところにある喫茶店だった。流行の『カフェ』とは違う、お世辞にもお洒落とは言えない昔ながらの文字通り『喫茶店』だ。
「待ち合わせ場所まで結構歩いたぞ。喫茶店ならもっと駅に近いところいくらでもあっただろうに」
立ち止まってそう言った牧を、諸星は『まあ、そうなんだけどさ』振り返って言った。
「ここだったらこんな格好でも気兼ねしないでいいからさ。お洒落なカフェってのとは違うけどなんか落ち着くんだよ。それにおまえと二人で来るのにお洒落なカフェもないだろうしな」
牧は『まあ、それはたしかにそうかもしれん』と笑った。
店に入ってすぐに目に付いたのは中心に据えられた円形のカウンター席だった。その外周をぐるっと囲むように椅子が配置されている。その左手にいわゆる普通のカウンター席兼厨房があり、壁に沿うように設置されたテーブル席はすべて赤い布張りのソファで、所々セロハンテープで穴が補修されている。その光景から最近出来た店ではないことは明らかだった。しかし店内は清掃が行き届いており、不潔感はない。珈琲の香りと煙草の煙が交じり合ったゆったりとした空気を牧は『悪くない』と思う。
「お二人様で?」
背の高いウェイターがはきはきした口調で諸星に問うた。諸星がこんな格好なので禁煙か喫煙かは聞かれなかったが、もし自分が一人で来ていたら間違いなく聞かれていただろう、と牧は想像した。
『お好きな席でどうぞ』とウェイターが言ったので、諸星は入口から直進した一番奥の席に歩み寄り、向かい合わせの席の上座に迷うことなく腰を下ろした。
「おまえ、普通客が上座だぞ」
「だって客だと思ってないもん」
間髪居れず当然のようにそう言って笑った諸星に呆れながら牧は首を振った。
「禁煙じゃないんだな」
全てのテーブルに白いメラミン樹脂製の灰皿が置かれているのを見た牧が言う。
「そういうので店側が客を選んでない感じが逆に俺は好きなんだけど」
諸星が言うように、最近流行の外資系や個人経営の小洒落たカフェでは『当店ではコーヒーの香りと味をお楽しみ頂くため、お煙草はご遠慮いただいております』という張り紙をよく見かける。まあ、主張としては間違ってはいないのだろうとは思うが、トイレの個室内に『いつも綺麗にご使用いただきまして誠にありがとうございます』と書いてあるのを見た時と似た、なんとも言えない居心地の悪さを感じる方も少なくないと思われる。それはおそらく客のためという体を装った店側が暗に『はっきり言わせんなよ、そっちで空気読めよ』と言っているように取れるからかもしれない。
「そういえばほとんど一人客だな」
牧は店内には学生、サラリーマン、OLなど、様々な顔ぶれが見て取れた。しかし牧の言うようにそのほとんどが一人で来ている。それぞれが良い意味でお互いに関心がなさそうで、店員も程よい距離を保って接客をしている店の空気に牧は、なるほど諸星が『なんか落ち着く』と言った意味がわかったような気がした。
「どうする?」
諸星は慣れた様子でメニューをスタンドから抜き取ると牧に差し出した。
「おまえは?」
「俺は頼むの決まってるから」
「なに?」
「アイスコーヒー。だからほら」
そう言って諸星はメニューをずいっと牧の方へ押し出した。
「どうしようかなぁ……」
メニューを手に迷っている牧をよそに、諸星は何やら落ち着かないようすで厨房の方を伺っている。しかし牧は牧でメニュー選びに集中しているのでそのことには気付いていない。
「じゃあ俺はこれに……」
牧がメニューから顔を上げると諸星の首は厨房の方へ向いており、牧の言葉は耳に入っていないようだった。
「なんだ、何かあるのか?」
「えっ? あ、いや、別に」
慌てて取り繕ったような返事をした諸星に牧はほんの少し不信のまなざしを向けたが、それ以上追求はしなかった。
「これにしようかなぁ」
牧が差したのはケーキセットだった。
「え? ケーキセット? マジで?」
牧の予想外のチョイスに諸星は身を乗り出して驚いて見せた。
「俺甘いの好きだから」
牧の甘党宣言に諸星は口を大きく開けてゆっくりとソファの背にもたれかかった。
「へぇー……意外」
「絶対そう言われるのわかってるから普段はあえて言わないようにしてるんだよ」
「はぁ、こりゃ失敬」
「意外って言えば藤真はあんな顔して激辛好きなんだよな。カレーとか普通に30倍とか頼むし」
「そうなのか。二人して顔とは真逆って感じだな」
「好きでこういう顔になったわけじゃないぞ。たぶん藤真もそう思ってるはずだ」
(童顔と老け顔で神奈川の双璧張ってるなんてちょっと出来すぎなんだよなぁ)と諸星は天井を仰ぎながら心の中だけで思った。そして隣の牧へ視線を戻し、テーブルに肘を付いた姿勢で牧の顔を覗き込むようにして話しかける。
「でも、もしおまえらがそういう見た目じゃなかったら友達にはなれなかったんだから俺はむしろ感謝してるよ」
しかしさすがの諸星もお尻に『その老け顔に』とは付けなかった。
牧の背後からウェイターが水とおしぼりを持ってやってきた。そして二人の会話を遮ったことを申し訳なさそうにしながら、『ご注文はお決まりでしょうか?』と尋ねた。
「もういいか? 頼むぞ。あ、セットの飲み物は?」
「アイスティー。ミルクと砂糖付きで」
諸星は牧のオーダーを先に通すと、続けて自分の分を注文した。
諸星が水と一緒に運ばれてきた緑色のガラストレイに丸まって乗せられていたおしぼりを広げると、ほわっと湯気が立ち上った。そしてそれをしばらく手の中で冷ましながら諸星が首を捻り言った。
「そういや今日は藤真と一緒じゃないんだな」
それで牧ははたと気づいた。諸星がまだ神奈川の予選結果を知らないことに。
「……今年IHに行くのはウチと湘北だ」
牧はどこか完全には現実味を帯びずにいたその事実を自ら言葉にすることでようやく自分のものにしたような気がした。今も鮮明に焼きつく静かに涙を流す藤真の横顔が思い起こされる。諸星は予想もしなかった牧の言葉に動揺を隠せず、目を見開いておしぼりを畳むと静かにトレイに置き、じっと前を見据えている牧へ視線を遣った。
「負けたのか……翔陽」
「ああ、予選で湘北にな」
「予選で? そのショーホクってのはそんなに強いのか? 聞いたことないぞ」
「そうだろうな、初出場だ。しかし実力は本物だぞ。俺たちもあと一歩のところで危なかったくらいだからな。今日付いて来てた二人の頭の赤い方、あれがその湘北の一年だ。桜木って言うんだが、まだバスケを初めて三ヶ月ほどだがかなりのポテンシャルを秘めている」
牧はそう説明したが、後半部分は耳に入っていないようすの諸星は静かに長いため息をついた後、何かを置き忘れてきたことに気付いた時のような口調でつぶやいた。
「そうか、藤真が……」
そして諸星がそう言ったのを最後二人はしばらく沈黙した。周囲の喧騒がやけに二人の耳についていた。
牧、諸星、そして藤真。三人が初めて顔を出会ったのは一年のIHだった。いずれも各校期待の新人として華々しくデビュー戦を飾った。しかし高校総体では全国から選抜された五十九校が一堂に会し、しかも基本的にはチームごとの団体行動なので他校の選手と個別に顔を会わせることはもとより、会話を交わすことなどほとんどない。では三人は一体どういう縁で知り合ったというのか。
きっかけは諸星だった。二年前のIHの時点ですでに海南大付属は全国に名の知れた強豪校であり、そこに『今年入った一年でスタメンを勝ち取った奴がいる』という噂は他県の同じく強豪校と呼ばれる学校の選手たちの間ではまことしやかにささやかれていたのだ。諸星属する愛和学院も愛知県屈指の強豪校であり、もちろん彼の耳にもその噂は届いていた。そして開会式終了後、噂の一年を一目見ておこうと諸星はその姿を探したのだった。
そこで諸星は藤真に出逢った。諸星は遠目に藤真を見た時、本当に何の他意もなく女子選手だと思った。ジャージで体のラインが隠れていたせいもあるのだが、何よりその横顔が美しかったからだ。こう書くと誤解を生む可能性があるので諸星とそして藤真の為に一応断っておくが、諸星が藤真に特別な感情を持っているということでは決してない。
諸星は藤真に近づいて『女子はここじゃないですよ』と話しかけた。藤真は大きな目をさらに丸くさせて諸星を見た。そして笑いながらどう聞いても男の声で『俺、男なんだけど』と言ったのだった。今度は諸星が目を丸くする番だった。しかし藤真は慣れているのか別段不快感を示したりはしなかった。『すいません、てっきり女の子かと思って……』と諸星が謝りを述べると、藤真は『何年?』と聞いてきた。諸星は『一年です』と一応敬語で答えたが、それに対して藤真は『あ、やっぱり? 俺も一年だからタメ口でいいよ』と返した。そして少し間を置いて『なんかこれと同じようなこと昔俺もやったことある気がする』と言った。諸星が問うと、藤真は目を細めて『海南の牧って選手を監督と間違えたんだよな。俺と違ってあいつは超怒ってたけど』と笑った。『海南?』と諸星が反応を示すと、藤真は『今年一年で海南のスタメン取ったやつ。噂は聞いたことあるんじゃない?』と言い、諸星が実は牧を探していた旨を伝えると、藤真は自分も神奈川の代表だと告げた。そして諸星の肩を叩いて『会いたいなら紹介してやる。けど監督の件は内緒な。本気で怒るから、あいつ』と笑いながら言うと、牧の元へ諸星を連れて行ったのだった。
そのような偶然で三人は出逢った。住む場所が離れていることもあり、全国大会以外で三人が顔を揃える機会はほとんどなかったが、お互いに良きライバルとしてまた目標を共にする者同士として、只の仲の良い友達というものとは違ったなにか友情に似た感情を三者共に持ち合わせていた。新聞や雑誌でそれぞれの近況を見聞きするたびに、良い記事には喜び、そうでない場合には同じ痛みを感じた。
しばらく微動だにせず唇を噛み締めて黙っていた諸星だったが、眉間に皺を寄せてようやく口火を切った。
「まだ監督兼任してるのか」
「ああ」
翔陽は歴代の主将が監督を兼任するという独特のシステムを敷いている。そのシステムに則るなら、藤真は三年になってから監督を担うはずだったのだが、諸事情により二年のIH直後に就任した。だから諸星はその事実をすでに知っているのだ。
「……去年のIHはたしか豊玉に負けたんだよな。でもあれも藤真が途中退場してなかったらどうなってたか……。それに今年だってもし藤真が選手に専念できてたら、翔陽じゃない、他の、ちゃんとした監督のいる学校に入ってたら、もし……」
「やめろ」
諸星の言葉を牧は強い口調で遮った。それを合図に二人同時に顔を上げた。牧の射るような強い視線を受けた諸星ははっとして口をつぐんだ。
「もしもの話なんてしてどうなるんだ。いいか、勝負においては結果が全てだ。良くも悪くも在ったことはそれ以上でもそれ以下でもない。それにそういう道を選んでここまで来たのは他でもない藤真自身だ。無理矢理やらされたわけじゃないならその結果に責任を負うのは当然のことだろう?」
牧は息をつかず一気に最後まで言い切った。それを諸星は黙って聞いていた。そして自分がもしもの話で逃げを打って見ないようにしていた厳しい現実を牧が代わりに言葉にしてくれたと諸星は感じた。
「しかしまあ……これは俺の勝手な想像だが、藤真は選抜まで残るような気がする」
諸星は黙って首を縦に振り、同意した。そして淀んだ空気を一蹴する意思を込めた明るい口調に切り替え、牧に問うた。
「おまえはどうするつもりだ? 夏が終わったら」
「そうだなぁ……」
「決めてないのか?」
「いや、まあ。うん……」
仮に自分がIHを区切りに引退を表明したとしても、海南大付属高校バスケ部は今と変わらず続いていけるだろうという確信が牧にはあった。高校バスケで常に勝利し続けるということは、誰が抜けても保持できるシステムを作り上げるということだからだ。どれほど致命的な穴が開いたと思ってもそれを埋める人間は必ず出てくる。瘡蓋の下から出てくる新しい皮膚のように。だから牧がいまだ引退を決断できずにいるのはそれが理由ではない。吹っ切れないのなにもは藤真だけではないのだ。
「それは夏が終わってから考えるよ。とりあえずは目の前のIHに集中する」
「そうか」
諸星がいい終わったところでウェイトレスがオーダーを運んできた。『良いタイミングだ』と牧は思う。そしてその想いを口にしてみた。
「今のは良かったな」
「えっ? 何が?」
「何がって、運んでくるタイミング」
「あっ……ああ、タイミングね。そうだな、良かったな……」
牧の何気ない発言に似つかわしくない動揺を見せる諸星に牧はさきほどからなんとなく感じていた違和感の元を探ってみる。
「おまえさっきからなんか変だぞ。厨房の方ばっかり気にしてるし、今店員の女の子がこれを置きに来たときも……」
そこまで言って牧はある仮説を立てた。そして半分カマをかけるつもりで諸星にそれを投げてみる。
「もしかしてあの子のこと好……」
言いかけた牧の口を諸星は両手で塞いだ。その様子から牧はカマが当たっていたことを確信する。
「なんだ、そうだったのか」
はははと笑いながら牧はウェイトレスを盗み見た。黒いチェックの半袖シャツに白いエプロン姿の彼女は、残念ながら後ろを向いており、顔は確認できなかった。そしてそんな牧を諸星は唇を噛んで見ている。
「ここにしたのも本当はそれが理由なんだろ?」
諸星に向きなおってそう言った牧はあきらかに面白がっている。対する諸星は不服そうだ。
「あー、もー。だから気付かれたくなかったんだよなー」
「それならあんなわかりやすいリアクション取らなきゃいいじゃないか」
「口で言うのは簡単だけどな、その立場になったらそんなに上手くいかないんだよ。そう言うならおまえはどうなんだ?」
「どうって何が」
「とぼけんなよ。そういう相手いないのかって聞いてんの」
牧はどうしようかと迷った。正直に言うかしらっばくれるか。
「いると言えばいるようなでもいないような……」
「なんだそれ。どっちかしかないだろ」
「簡単に言うな。どっちかはっきりできたら俺だって苦労しない」
半ば逆ギレで牧は返した。
「そりゃ言うがや。他人事だで」
そうぶっきらぼうな名古屋弁で言った後すぐ諸星は勘付いた。そしてその瞬間の牧の表情を逃すまいと上目遣いで探りを入れる。
「もしかして片思いだったりして」
図星だったのか牧は黙り込んでしまった。諸星が面白いおもちゃを見つけた子供のような表情で不敵に笑う。形勢逆転だ。
「なんだー俺と一緒じゃん。え? 誰? どんな子? どこの子? 学校の子?」
「いっぺんにいろいろ聞くな。それに子じゃない」
「子じゃないって……。あっ、年上? 年上かぁ、あちゃー」
「あちゃーって何だ、あちゃーって」
「いや、はは。そうかそうか。へー。まあいいや、とりあえず食べろよ」
牧にリベンジを果たせて満足したのか、諸星は余裕の表情で牧に『シロノワール』を勧めた。逆に牧は納得がいかない風だったが、温かいアップルパイから立ち上るバターの良い香りに負けた。
「アップルパイってどんな味?」
「え? 食べたことないのか?」
「うん」
意外な告白に今度は牧が驚く番だった。
「食べてみれば? フォークもう一個もらってさ」
「えー、いいよ。もともと甘いのそんな得意じゃないし」
「でも食べず嫌いなんだろ? すいませーん。フォークもう一個……」
そう言って牧は厨房を振り返り、件のウェイトレスに声をかけようとした。それを見た諸星が速攻でそれを制する。
「馬鹿! 本気で怒るぞ!」
諸星はとっくに冷たくなったおしぼりを牧に投げつけた。
「冗談だよ。ごめん、ごめん」
牧は手で『すいません、大丈夫です』と意思表示し、ついでにウェイトレスの顔も確認した。そして(なるほど、こういうのがタイプなのか)と腹の中で頷いた。
きちんと畳みなおされたおしぼりを牧から受け取りながら諸星は(こいつ意外と根に持つタイプなのかもしれない)と牧の本性を探った。
「ほら、食べてみろよ」
牧が差し出したフォークを受け取るのをしばらくためらっていた諸星だったが、結局ごく小さい一切れを口に運んだ。
「どうだ?」
「……ん、意外と悪くない」
「なんでも経験だ。食べる前からまずいって決め付けてたら本当はうまいかもしれないものも逃しちまう可能性もあるしな。やらずの後悔よりやっての後悔だ」
諸星はフォーク噛みながら何やら考えていた。そして結局もう一切れ食べた。
喫茶店を出てユニモールを少し歩いたところで諸星は『ちょっと忘れ物したから先行ってて』と牧に言い残して元来た道を戻って行った。そしてJR名古屋駅構内のキオスクの書店で待つように言われた牧は何を探すでもなく店内をうろうろと歩き回り、奥まった場所に設置されていた旅行ガイドコーナーの前で足を止めた。そして牧はおもむろに棚へ手を伸ばすと『豊川市』の地図を取った。いつだったか諸星の祖父母が豊川市在住で、諸星自身も小学校まではそこに住んでいたと聞いたことがあったからだ。愛知県の地理に詳しくない牧はその時はピンとこなかったのだが、地図を眺めているうちに豊川市がその昔、鎌倉街道の宿場町として機能していたことを知る。鎌倉街道は鎌倉時代に幕府によって整備された朝廷のあった京都と鎌倉を結ぶ道で、現在の東海道の前身にあたり、その道筋もほぼ重なる。牧は自分を歴史にロマンを感じるタイプではないと思うのだが、その事実を知った時だけはなんとも言えない因果を感じた。
「おまたせしました」
牧の背後から諸星の声がした。
「ああ、遅かったな。あったか忘れ物」
諸星は意味深げな微笑を称えて『うん』とだけ答えた。何か含みを持たせたその言い方に牧は何かあったのだろうかと心配した。
「どうした?」
牧は深刻さを含んだ口調で諸星に尋ねたが、それに反して諸星はすっきりとした表情で笑みを見せ、明るい口調で返した。
「彼氏いるんだってさ」
予想外の言葉を投げられた牧の思考はしばし停止した。そして細い糸の元を手繰るように記憶を辿ると、ひとつの結論に辿り着く。
「それって……さっきの喫茶店の?」
諸星は声に出さずに頷きで『うん』と応えた。
「おまえの言う通り、とりあえずやってみなきゃわかんないと思って」
的確な返事を見つけられない牧は目を伏せて黙っていた。言葉が見つからないという事実以上に、牧は自分が何を言っても無駄なような気がしていたからだ。しかし諸星も何か言って欲しいと思っていたわけではないので、結果的にその判断は正しかった。
「でももうあそこ行けないじゃないか」
「それはまあ、大丈夫……っていうか、言う時はそんなこと考えてなかったけど、俺、名駅に出てくることってそうないんだよ。遊びに行くつったらほとんど栄だからさ」
全部承知で行動を起こした諸星に牧はもうこれ以上自分が何を言うこともないと思ったので、小さく一言、『そうか』とつぶやくに留めた。
「おまえは言わないの? その年上の彼女に」
突然自分に矛先が向いてきたことに些かの同様を隠せなかった牧は目を見開いて困った。そして笑いながら短く答えた。
「自信ない」
牧の言葉を諸星は『OKをもらう自信がない』という意味に取った。
「そりゃ俺もなかったさ。でもやってみなきゃわかんないって言ったのおまえだぞ」
「うん、まあ、それもあるんだけどな」
「じゃあ……」
「違うんだ。それよりもし万が一OKて言われたらどうしようって思う気持ちの方が大きくて。俺なんかが彼女の隣にいていいのかって……まあ何もしないうちにどうこう言ってものただの杞憂だがな」
気恥ずかしさから下を向いたままそう言った牧は、諸星が何も言ってこないのを不信に思って顔を上げた。すると諸星は嬉しいのか悲しいのかはたまた両方なのかよくわからない表情で口を開け、牧を見つめていた。そしておもむろに牧に抱きついて叫んだ。
「かわいい!」
一瞬、牧は自分がどういう状況に置かれたのかを把握できなかった。諸星の放った『かわいい!』という言葉がまさか自分に向けられているということもしばらく理解できなかった。その牧が我に返ったのは自分たちが周囲の好奇な視線にさらされているのに気付いたからだ。
「おい……よせ! 人が見てる!」
言うことを聞かない諸星を無理矢理引っぺがすと、牧は乱れたTシャツの襟元を正しながら、困惑の口調で諸星をどやし付けた。
「なんなんだ急に!」
諸星は牧の怒りと困惑など全く意に介していない様子で、心底楽しげに笑い続けている。
「いやぁ、だっておまえがまさかそんな事言うなんて思わないからさぁ。『俺なんかが彼女の隣に』って何それ、超かわいいんだけど。女の子みたい」
苦虫を噛み潰したような顔で牧は(しまった、言うんじゃなかった)とチッと舌打ちをした。しかし言ってしまったことは仕方ないと気持ちを入れ替え、ため息で区切りを付けると呆れたように言った。
「俺に『かわいい』なんて言う奴はおまえか藤真ぐらいだよ」
しかしそう言った牧は少し嬉しそうに見えた。
「ごめん、ごめん。もう言わない。ちょっと調子に乗りすぎたな」
そう言って頭を下げた諸星は頭を上げざま、『あっそうだ』とひとりごちてポケットを探った。取り出されたそれは名刺サイズの一枚の紙だった。
「今回は行かなかったけど、『コメダ珈琲店』って名古屋では有名なチェーンの喫茶店があるんだ。そこの『シロノワール』ってメニュー、あったかいデニッシュパンにソフトクリームが乗っかっててすごい甘いから俺は無理なんだけど、おまえだったらきっと好きだと思う。聞いたら店、鎌倉にもあるんだってさ。深沢ってとこ。わかる?」
そう言って諸星は『コメダ珈琲店』のインフォメーションカードを牧に手渡した。特徴的な黒字にオレンジ色で書かれた店名を見た牧は、待ち合わせ場所に向かう途中に同じ看板を掲げた店を何件かあったことを思い出す。そういえば店には観光客らしき集団が群がっていて、店の外まであふれ出していたな、と。
「へー。それは興味あるな。深沢ならまあ、行けない距離じゃないし」
「そうか、俺はその辺の地理全然わかんないけど」
「今度はこっちに遊びに来いよ。海が近い……っていうか目の前だな。だから来るなら夏の間がいいと思う」
「そうか。考えとくよ。とりあえずIHが終わってからだな」
牧が新幹線のデッキから別れを告げると、諸星はドアが閉まる直前に『藤真によろしく』と言った。そして新幹線が完全に走り去るまでずっとホームから手を振っていた。
名古屋市内を抜け、三河湾を右手に過ぎてしばらくすると浜名湖が見えてきた。行きは清田と桜木があれやこれやと騒いでいたのでゆっくり見るヒマなどなかったため、牧は子供が車窓から景色を覗くためにそうするように身を乗り出した。水面に傾きかけた夕日がキラキラと反射している。その陽の色にふと時計を見ると時刻はすでに午後五時を回っていた。普通に考えれば清田たちはとっくに神奈川に着いているだろう。しかし(寝過ごさずちゃんと新横浜で降りていればの話だがな)と牧は少し不安になった。
牧はポケットから喫茶店のインフォメーションカードを取り出し、(そうだ、今度深沢の店に藤真を連れて行ってあれを食べさせてみよう。あいつも結構思い込みが激しいところあるからな)と一人楽しげに計画を練った。しかしどうしても諸星が言っていたメニューの名前が思い出せず、唸りながら考え続けた牧がようやく『シロノワール』という名前を思い出せたのは相模川を越えて新横浜まであと十分という時だった。