不毛地帯
「南さんがUFO、岸本さんはカップヌードルシーフード、でよかったですよね?」二人が黙って頷いたのを確認した板倉は満足げにビニールの個包装を解きにかかった。その額にはうっすらと汗が浮かび、息が上がっている。それに気がついた南は漫画のようにビニール袋を手にぶら下げた板倉が部室へ向かって走ってくる姿を想像した。そして額から首に伝い落ちた汗を見て、そっと暖房の設定温度を下げてやる。
「そういえばこないだ久しぶりに夜鳴きそば食うたわ」
ほどいた髪に櫛を入れている岸本の背中へ南がつぶやく。岸本は手早く髪をまとめて束ね、シャツの前ボタンをはめながら振り返った。
夜鳴きそばとはいわゆる屋台のラーメン屋のことである。内部に厨房が設置されたリヤカーあるいは軽トラを引いた行商が街を行き、ラッパを吹いて到来を知らせる。そして声がかかったその場所で麺を茹で、できたてのラーメンを提供するのだ。地域によってはチャルメラと呼ばれるところもある。特別うまいものではないが、夜中に食べるというシチュエーションが味を底上げするのだ。子供の頃なら夜更かしの楽しさも加味されるだろう。
「夜中に食べるからうまいんやろなあれは。テスト勉強中とか」
「でも食べたら腹に血行って眠なって終わりや。ほんまに勉強しよう思たら夜食なんか食べたらあかん」
雑談する二人の間に板倉が割り込む。そして湯を注ぎ終えたカップを両手に、何気なくその質問を投げかけた。
「南さんと岸本さんは何ラーメンが一番好きです?」
二人は同時に板倉へ向いた。
「俺はやっぱり塩やな。基本や」
すかさず答えを出したのは岸本だった。板倉が、うんうん、とやや大げさにリアクションを取ってみせる。首の動きに合わせて手の中のカップが揺れ、もう少しでつゆが飛び出すところだった。
「たしかに、よう塩ラーメンでその店のレベルがわかるて言いますもんね。南さんは?」
「俺……はなんやろ。とんこつ……、いや味噌も捨てがたい……」
本気で悩み始めた南を見ながら板倉はベンチの上にラーメンを置いた。立ち上る湯気に岸本が鼻を鳴らす。
「おまえ前はしょうゆが一番やて言うてたやんか」
「昔はな。好きなもんも年と共に変わっていくんや。舌が大人になる言うか。岸本、おまえは昔っからずっと塩一本やけどな」
「ああ、たしかに大人になってから食べれるようになったもんとかありますよね」
板倉が人の発言にいちいちフォローを入れるのはもはや癖のようなものなのだが、岸本は二人して『おまえはまだ子供』と言われたような気がしていささか面白くない。
「で、結局何が一番やねん」
不機嫌な口調で急かす岸本の内情をまったく理解していない南は、やたら呑気な調子で手をあごにあててかわいらしく首をかしげながらようやく答えを出した。しかしその南の態度と答えが岸本をさらに不愉快にさせた。
「うーん、今は担々麺かなぁ」
岸本は顔をめいっぱいゆがめて、待ってましたとばかりにけちを付け始める。
「はぁ? 担々麺~? あんなもんラーメンとちゃう! 邪道や邪道! そもそもやな、ラーメンの真髄はスープにあるんや。一見なんの変哲もない透明のスープの中にいろんな味がぎゅーっと凝縮されてるんが醍醐味やないか。あんな辛いだけでしかもドロドロのスープなんか、あー、あかんわ、ありえへん。ありえへん。あんなもんどこがうまいんか理解できへんなぁ。ていうか、あれをうまい言う奴の神経がわからん」
岸本は偉そうに腕を組んでふんぞり返った。一気にまくし立てられて一瞬唖然と言葉を失った二人だったが、はっと我に返った板倉が『まあ、味覚は人それぞれ好みがありますから……』とフォローしたが、時すでに遅しだ。
「なにが『醍醐味』や! いまだにカレーに牛乳入れて食べる子供舌のおまえごときが偉そうにほざくな! ボケ! ええ機会やから言うといたるけどな、ルーとライスぐちゃぐちゃに混ぜて食べんのやめろ! 見ててごっつ気持ち悪いねん!」
「なんで食べ方の話になんねん! 今は関係ないやろ! ほんならこっちも言わしてもらうけどな、おまえの煎餅わざわざ湿気らしてから食べる方が理解できひんわ! 味覚障害や! 味覚障害!」
「なんでもかんでもマヨネーズかけたらええと思てるおまえこそ味覚障害やろ! そんな好きやったらマヨネーズに直接口付けて飲んどけ!」
「極論言うな! おまえこそとんかつにソースかけるとき一ミリも隙間なくびっちりかけんのやめろ! かけてる時の目がすわってて怖いねん! それこそ病気や! ビョウキ! 隙間恐怖症や! メキシコ人か!」
「なんで急にメキシコ人が出てくんねん! わけわからんわ! あとなんでも二回言うのやめろ! しつこい!」
完全にポイントを見失った議論はただの口げんかとなり、口調も徐々にヒートアップする。しかし内容は反して馬鹿馬鹿しさを増していくのだった。
「二人ともそんな小学生みたいな……」
このままでは収拾がつかないと踏んだ板倉がそう意を決して割って入ろうとしたのだが、二人に「ああ?!」と完璧にハモられて退いた。しかし少しクールダウンさせる効果はあったようで、南がやや冷静さを取り戻した。
「……あーしょうもな。もうええわ。アホに説明するだけ時間の無駄や」
南が投げた匙を岸本が投げ返す。
「なんや逃げんのか」
「あ? 逃げるやと?」
消えかかった火に再び油を注ごうとする岸本の肩へ板倉が手を置いてなだめすかし、南に視線で「早よ行ってください」と合図を送った。南は何か反論したそうに二、三度足を止めて振り返ったが、出口のドアを足で蹴り飛ばして開け、そのまま黙って部室を出て行った。
「帰る!」
板倉の手をふりほどいて立ち上がった岸本はぶつぶつと文句を言い続けながら部室を出た。廊下でもまだひとり憤りを叫んでいる岸本の声を聞きながら、後に部屋に一人残された板倉は深い溜息をつき、自らの発言を悔やんだ。そして目の前のベンチでは置き忘れられたカップラーメンが仲良く並んでゆっくりとのびていったのだった。
それから数日間、南と岸本は一言も口をきかなかった。周囲の人間は二人の間に何かあったのかと心配したが、事の経緯を知っている板倉もまさかラーメンの味で喧嘩になったとは言えなかった。しかもそのきっかけを作ったのが自分なのだからなおさら口をつぐんでしまった。
そうして三日経ち、四日経ち、週末を迎えた。
「あ」
声を挙げてしまってからしまったと岸本は思った。内心ではもうそろそろ和解してもいいと思っていたが、自分からは折れたくない。かと言ってこのまま冷戦を続けるのもすっきりしないし、どうしたもんかと困っていたところの鉢合わせだった。しかしそう感じていたのは南も同じで、発端がくだらないだけにいつまでもこの状態を続けるのが馬鹿馬鹿しくなってきていたところだった。二人は駅前の信号を並んで無言で待った。
青に変わって歩き出した二人の足並みが意図せず揃う。商店街を抜けてしばらくするとどこからかカレーの匂いが漂ってきた。
「カレーや」
部活で極限まで空かせた腹具合も相まって、岸本はまたもや条件反射的につぶやいてしまった。もともと感情を心の内に秘めておくことが得意な方ではないのだ。反して南は言うべきことも黙って押さえ込んでしまうタイプだが、この時ばかりは岸本と同じ気持ちでいたらしく、うつむきながら小さな声で応えた。
「ほんまや」
その時二人の後ろから自転車のベルがけたたましく鳴らされ、二人が同時に振り返ると道の向こうから岸本の母親がやってきていた。
「あんたら今帰りか」
岸本がめんどくさそうに「ああ」と応えると、母親は南へやたら明るい口調で問いかけた。
「烈ちゃん、今日カレーやで。食べてくか」
匂いの発生源は岸本の家だったのだ。迷っている南が岸本の顔をうかがうと、すっと視線を外して「食べてったら」とつぶいやいた。そしてダッフルコートのポケットに両手を突っ込んで歩き出した岸本の後を南が追った。
岸本家のダイニングテーブルで二人は向かい合って座った。バタバタとしょくじの支度をしていた母親が宅配便の応対に玄関へ行ってしまうと、居間には鍋が煮える音以外何も聞こえなくなった。沈黙をごまかすために岸本はテレビを付けた。ゴールデンタイムのくだらないバラエティを二人は観るとはなしに眺める。
「ああもうちょっとあんたボケっとしてんとかき混ぜてくれな焦げるやんか」
段ボールを手に戻って来た母親が岸本を一瞥し、「ほんまに気ぃの効かん子やなぁ」とぶつぶつ文句を言いながら火を止めた。そしてせわしない動作で冷蔵庫を開ける。
「あんた牛乳いるんやろ?」
背中へ投げられた問いにテレビへ向いていた岸本と南の動きが止まった。どう返事をしたものかと迷った岸本は反応をうかがおうと手に顎を乗せた姿勢で肘をついている南の横顔へ視線を遣った。視線を感じたのか南はゆっくりと十五度ほど岸本の方へ顔を動かし、目はいつも通りの無表情のまま、口元だけをゆるませて笑って見せた。
大皿にめいっぱい盛られたカレーが二人の目の前に運ばれてきた。追ってテーブルに運ばれてきた500ミリリットルの牛乳パックを手に取った岸本は湯気の立ち上るルーへと迷いなく中身を注いだ。牛乳パックの口を閉じるのを見計らって南が手を合わせると、それに倣って二人は「いただきます」と行儀良くカレーに手を付けた。
「やっぱりカレーはこれやな」
「このぺらぺらのんがええねんなぁ」
二人の間でカレーと言えば暗黙の了解で豚バラ肉との共通認識がある。関西で肉と言えば牛が基本なのだが、岸本の家のカレーは母親が東の出身ということもあり、豚バラの薄切り肉で作る。幼い頃を岸本の家で食べた南はどういうわけかその味がツボに入ったらしくすっかりそれを気に入ってしまい、家に帰るなり母親にいかにそれがうまかったかを懇々と説いた挙げ句、ついには自分の家のカレーも豚肉に変えさせてしまった。普段はおおざっぱで細かいことを気にしない代わりに、これと思ったことに関しては異常なまでのこだわりを見せる南の性格の基礎はどうやらこの頃から形成されていたと言える。
「価値観の押しつけはあかんなぁ……」
ルーとライスをぐちゃぐちゃとかき混ぜて食べている岸本の手元をじっと見つめていた南がぼそっとつぶやいた。
「俺ももうちょっと大人にならんとあかんな。譲る言うことを覚えんと」
気恥ずかしさからか、視線を合わせずに岸本がぶっきらぼうに言う。
「まあええやんか、もうすんだことや」
そう言うと南がスプーンを動かし始めた。南はルーとライスが同時になくならないと気が済まないため、まるで区画整理をするようにルーとライスを同分量ずつ口に運んでいる。一方、一足先に皿を空にした岸本は小刻みにうなづいて氷水のグラスを手に取った。手近のティッシュを乱暴に三枚ほど引き出して口を拭うと、黄色いルーが唇の形そのままの跡になって付いた。板倉が聞いたら「せやからあの時言いましたやん」と反論されそうなやりとりだったが、二人はそんなことすっかり忘れたようすでのんきに納得して笑い合った。
「せやけど一緒言うんはええことやな。喧嘩にならんで」
最後の一区画を口に運びながら南はうれしそうにそうつぶやいた。
翌日の昼休み、食堂で昼食を食べ終わった南と岸本が談笑していたところへ、板倉がやってきた。二人が和解したことを知った板倉はほっと胸をなで下ろして駆け寄った。
「お二人とも仲直りしはったんですね! よかった!」
「おお、おまえにも余計な心配さして悪かったな」
「いえいえ! とんでもない! あ、お昼もう食べはりました?」
「ああ」
「せやったらこれおやつにどうぞ」
そう言って板倉はビニール袋の中から箱入りのチョコレート菓子を二つ取りだした。それが新たな紛争を引き起こす火種になるとも知らずに。
「一個ずつしかなんですけど、『どっちか好きな方』で」
何の疑いもなくそれぞれに伸ばされた南と岸本の手が「たけのこの里」の上で重なった。
「……おまえ『きのこ』にせえよ」
手を重ね合ったまま岸本が南を牽制した。しかし南も引かない。
「俺は昔から『たけのこ派』やねん。おまえこそ『きのこ』にせえや」
そう言った岸本が勢いよく南の手を払いのけた。
「なっ……なにすんねん! おまえ昨日大人になるとか言うてたんもう忘れたんか?」
「覚えてます、覚えてます」
馬鹿にしたように二度繰り返す岸本のその口調が南の苛立ちを刺激する。
「せやったら俺に譲ってーや」
出来る限り冷静を心がけて言ったつもりだったが、その心岸本知らずであった。
「昨日は昨日、今日は今日や」
不敵に笑いながら岸本はミシン目からパリパリと蓋を開けた。
「あっ! おまえ何勝手に開けてんねん!」
「大人になったら口変わるんやろ? 別にええやんけ」
切り口を探し得てた岸本は、南の忠告をよそに中袋を開けて一つ目を口に放り込んだ。
「勝手に食うな! 全部が全部変わるわけちゃうわ! 言葉のニュアンスも読まれへんのか、ボケが!」
南は岸本が座っている椅子の足を思い切り蹴飛ばすと、斜めに傾いた椅子から手にたけのこの里を持ったまま岸本が滑り落ちた。その後すぐに椅子も半回転して転がり、大仰な音を立てて岸本の上へと落ちた。それを見下ろす仁王立ちの南と、何事かと集まってきた野次馬の後ろで板倉一人が青い顔をして目を回していた。