春の声
その朝、赤木晴子は教室へと向かう廊下ですれ違いざま、『あんたバスケ部のマネージャーになったらしいけど、ちょっと流川くんに近づいたからって調子に乗らないでよね!』と因縁を付けられた。相手は悪名高き“流川楓親衛隊”の最古参メンバー三人だ。あまりに突然のことだったので晴子は言い返すこともできず、オロオロとしているうちに相手は素早くその場を離れた。憤った早足で去っていく三人のなかで、ショートカットの女子が一度だけ振り返り、遠くで仕上げのように鼻を鳴らしてせせら笑う仕草を見せた。
理不尽ないいがかりにもかかわらず、晴子は怒りより驚きが勝った。正式に湘北高校バスケ部のマネージャー就任を発表したのは昨日の夕練で、事前にそのことを知っていたのは主将の宮城と先輩マネージャーである彩子だけだったからだ。二人には、個別に情報が漏れるのは避けたいと言っておいたし、そもそも二人と彼女らに直接の接点はないはずだが、2年にも親衛隊のメンバーはいるようだから、宮城と彩子の話を聞きかじって彼女等まで伝達したという可能性も否定できない。いずれにしても、噂に違わぬ卓越した情報収集能力である。
そこで晴子は思考を放り出した。考えても仕方がないと気づいたからだ。彼女らの指摘にしても同じことだった。流川に近づいた? 調子に乗る? おそらく、彼女らが憂いているのは、物理的接点が増えることから派生する“何か”が、恋だの愛だのに発展する可能性だろう。しかし、流川と自分の間に限ってそんなことは万に一つもありえない、少なくとも晴子はそう思っている。一介のマネージャーになった。それがいったい何のビハインドになろうかと。笑いたいのはむしろ晴子の方だ。
蟻の子一匹入り込む隙間もない。そのことを晴子がはっきりと自覚したのはマネージャーになる少し前、IH予選を終えたあとのことだった。
***
正月の晴れた空に、陽を受けた電線が光って揺れている。ついこのあいだまでクリスマスのリースが街を彩っていたのに、と晴れ着姿の晴子は天を仰いだ。赤木家の初詣は、元日の朝、家族揃って氏子である地元の神社へ祈祷を受けに行くと決まっている。
慣れないマネージャー業に追われるあわただしい日々のなかで、濃緑だった木々の色が褪せ、紅い葉が散って、冬の選抜の終了と共に年が明けた。クリスマスや年の瀬の浮き足だった空気と無縁の毎日を送っていた晴子にとって、初詣は久しぶりのイベントらしいイベントだ。元日のイベントといえば、本当はもうひとつあったのだが、そちらはとうの昔にあきらめていたのでいまさらどうするということもない。
徒歩で神社へ向かうと、恒例の甘酒がふるまわれており、独特の甘い香りが周囲に漂っていた。参道の中央でには暖を取るための大きなたき火が焚かれている。ときおり、組み上げられた松明が崩れ落ちて細かい火の粉が舞い上がる。その火を囲むように参拝客が行き交い、顔なじみにすれ違うたびに立ち止まって腰を折りつつ新年のあいさつを交わし合う。
人々の群れから頭ふたつほど飛び出したその人物を最初に見つけたのは晴子だった。立ち止まり、思わず、あっ、と挙げた声に隣を歩いていた赤木も足を止めた。
「なんだ? ああ、流川じゃないか。バスケにしか興味なさそうなあいつでもさすがに初詣には来るんだな」
内心、思っていたことを先に口にされて、晴子はやっぱり兄弟だと思う。周囲に流川の家族は見当たらない。一人で来ているのだろうか。
「いちおう挨拶してくるか」
「え? あ、あたし、いい。お兄ちゃん行ってくれば。あたしこれ返して来るから」
兄弟で挨拶など気恥ずかしくてかなわない晴子は、手の中の破魔矢を掲げながら社務所へ駈け出した。赤木はまだまだ子供っぽさの抜けない妹をやれやれといった風に見送ると、両親を連れ立って流川へ近づいていった。
社務所で古い破魔矢と代金を渡し、神主が新しいものを取りに奥の座敷へと引っ込んでいるあいだ、晴子は家族と流川のやりとりを遠くから眺めていた。
以前感じていた胸の高鳴りのようなものはすでにない。そのことを晴子は冷静に自覚している。そして、そのわけも。
いろいろと考えた結果、マネージャーとしてサポートすることが、唯一、自分の流川に対する好意を表現できる方法だと晴子は結論付けた。ただ憧れだけに身を委ねていた頃には思いもよらなかったことだ。その考えに辿り着いたとき感じた静かであたたかいかなしみの形を晴子はよく覚えている。
赤木が両親を流川に紹介し、両親が頭を下げる。倣って流川も深々と頭を下げた。おそらく晴子が同行していることを告げているのだろう、赤木が晴子を振り返った。それに促された流川の視線が社務所へ流れ、それであやうく視線が合いそうになって、晴子は慌てる。タイミングよく神主が戻ってきたので、取り繕うように破魔矢と釣り銭の500円玉を受け取るふりで流川の視線から逃げた。
鼓動を落ち着けて息を吐き、家族の元に戻ろうと一歩踏み出したところで晴子は突然前のめりに転んでしまった。
見れば右足の草履の鼻緒が切れていた。新年早々縁起が悪いと、地面についた手の砂を払う。
「おめでとう」
ふいに頭上から降ってきた声に晴子は身を固くする。
「あ……お、おめでとう」
「あんまめでたくなさそーだけど」
流川は冗談なのか真面目なのかよくわからないトーンでひとりごとのようにつぶやき、黙ってその場へしゃがみこんだ。
下はリーバイスのブルージーンズ、上はオフホワイトのパーカーにダウンジャケットを羽織ったカジュアルな格好で、足元は何度か見かけたことのあるそれなりに履き込まれたナイキのスニーカーだった。正月らしさはどこにも見当たらない。いつもと同じ流川だ。晴子は晴れ着姿の自分が急に恥ずかしく感じられてくる。
流川は左足のスニーカーの靴紐を解いた。緩みを直すのかと晴子が眺めていたら、そのまま靴から抜き取ってしまった。
「足出せ」
「え?」
「切れてんだろ、それ」
それで晴子は流川が靴紐を抜いた意図をようやく理解した。
「いいよ! そんな!」
「いいもなんも、それじゃ歩けねーだろ」
有無を言わせぬように語気強く放たれて、晴子はやむなく足を差し出した。
目の前で繰り広げられていることに現実味が沸かない。手際よく鼻緒を補修していく流川に、意外と器用なんだ、とどこか他人事のような感想を抱く。ぼうっとした頭で晴子は、練習中のやりとりを除けば、流川ときちんと会話を交わしたのは“あれ”以来かもしれないと、入学早々、屋上で桜木と殴り合いの喧嘩をしたときのことを回顧する。流川はもう忘れているかもしれないが、晴子にとっては忘れられない苦い思い出だ。
「ありがとう……。今度学校で返すね」
「べつにいい」
つっけんどんにそう言って流川は去って行った。後ろ姿は少し歩きにくそうに見えた。当然だ。靴紐のないスニーカーが歩きやすいはずがない。
入れ替わりに赤木がやってきた。タイミングが良すぎるところを見ると“こと”が済むまで待っていたのだろう。
「立てるか?」
しらじらしく赤木が尋ねても晴子はぼんやりした目つきで地面を見つめているばかりだった。
「おい、大丈夫か?」
「うん……大丈夫。悪いけど、お兄ちゃんたち先帰ってて」
地面を睨んだまま晴子は棒読みでそう答え、赤木に破魔矢を渡した。赤木は理由を尋ねず、あまりうろうろするなよ、とだけ言って立ち去って行った。
赤木はそのまま両親を連れて境内を後にした。三人を見送った晴子は、姿が見えなくなったのを確認したあと、握りしめっぱなしだった左手をそっと開いた。じっとりと汗ばんだ手のひらがつめたい風にさらされて急激に冷えていく。中央に置かれた500円玉を摘み上げると、それはまだじんわりとあたたかかった。
晴れ着から普段着に着替えた晴子は自室の机に向かってじっと思慮していた。
机の上には白い袋がひとつ。中には釣り銭の500円で買った紫色の御守が入っている。(もちろん家に帰ってから晴子はその500円を自分の財布から親に返した)
意を決した晴子は引き出しからボールペンを取り出し、準備していたレターセットにその先を押しつけたが、色は付かなかった。何度か角度を変えてこすったり、本体を振ったりしてみたが駄目だった。完全にインクが切れているらしい。机の中を漁ったが他には太めのカラーペンしかなく、あきらめた晴子は仕方なく一階のリビングへと向かった。
リビングソファにもたれかかって母親がNHK教育のドキュメンタリーを観ている。番組は絶滅が危惧されている野鳥の特集らしい。 晴子はソファの後ろのキャビネットにボールペンを探しているあいだに、母親の後ろ頭がこくりこくりと揺れているのに気付いた。どうやら居眠りをしているようだ。
その肩越しに、ガーデニングが趣味の母親によって隅々まで手入れの行き届いた庭が見える。あいかわらずきれいにしていると晴子が関心していると、窓の正面に植わった木(晴子の生まれた年に植えた桜だ)に一羽のひばりがやってきた。口元には橙色の欠片をくわえていて、どこからか拝借してきた柿の実のようだ。ひばりは、二、三度、左右に首を振ってあたりを警戒した後、ようやく枝の上でそれをついばみ始めた。
しかし、その様子をよく見ようと晴子が窓に寄ろうと数歩近づいた瞬間、その気配を敏感に感じとったひばりは、チチ、と短く鳴いてあっけなく飛び立ってしまった。晴れた空を高く飛んでいくひばりを追いながら、晴子は自身の安易な行動を悔やむ。
野鳥の映像を淡々と映し続けていたテレビに落ち着いた男性のナレーションが流れ始めた。
『少しでも人間の気配を察すると、野鳥は警戒してすぐに逃げてしまいます。しかし“完全に気配を消す”というのは数十年のキャリアを持つ熟練のカメラマンにとっても至難の業です。ですから“気配を消す”のではなく“自然に溶け込む”あるいは“自然同化する”よう心がけるとよいでしょう。大切なのは鳥に『敵ではない』と思わせることなのです』
ヒバリが豆粒ほどに遠ざかった頃、晴子は引き出しからボールペンを探し出当て、隣の電話台に備え付けられているメモで試し書きをした。ペンのインクがあることを確かめると、試し書きのメモはちぎってゴミ箱に捨て、下から出てきた新しい一枚をめくり取る。そして薄くいびきをかき始めた母親を起こさないよう静かにテレビの電源を落とし、抜き足でリビングを後にした。
机に戻った晴子は、インク切れのボールペンで便箋に付けた “H” の跡を指でなぞり、封筒と一緒に元の透明の袋へ戻して机にしまった。そして椅子に腰をかけると、ちぎってきたメモを前に呼吸を整える。メモは年末に母親が地銀でもらってきた粗品で、薄いピンクの上質紙の下部に黒いインクで地銀の名前が印刷されている味気ないものだ。
その中央に“このあいだはありがとう”と書く。そして、あくまでもこれはあのときのお礼だからと口実を噛んで、右下に小さく名前を添えた。