ショートホープ
三井のテンションが目に見えて下がる時期が年に二回ある。秋と冬。毎年その時期に、高校バスケの三大タイトルと称される全国大会が行われると知ったのは、出会って最初の夏が終わり、三井の制服が学ランに戻った頃だった。秋と冬だけでは三大にひとつ足りない。季節がめぐって二度目の夏、インターハイと呼ばれる全国大会の開催が間近に迫ると、予想していた通り三井は憂鬱と不機嫌を隠さなくなった。これで年二回のイベントが三回に増えた。
地元の祭りに誘ったのは、辛気臭いツラを見ているのが鬱陶しかっただけだ。元気づけてやろうだなんて押しつけがましい気持ちはなかった。ダルいのなら自分の家で寝ていればいいのにと思うが、そういう時に限って人のそばへ来たがるのが三井の性分だということも知っている。
七月初旬に地元で開催される七夕祭りは、日本三大七夕祭りの一角らしい。あとは仙台と、愛知のどこか。竜に聞いたが興味がなくて忘れてしまった。バスケの大会といい、七夕祭りといい、日本人はなぜ三にこだわるのだろう。そういえば三井も三だ。三という数字にはなにか縁起のいい意味でもあるのだろうか。
そんなことを考えながら前を行く三井の背中を眺めていたら、横断歩道の手前で三井が急に足を止めた。
「こっちから行こうぜ」
目の前の青信号を渡らず、三井は左へ道を折れた。
「遠回りになるぞ」
「いい」
あきらかに何かを避けた感じだ。三井が渡れなかった横断歩道の先へ目を流す。低層の集合住宅が立ち並ぶただの住宅街だが、手前に高校の校舎がある。壁面に掛けられた「祝 男子サッカー部インターハイ出場」の垂れ幕が目に入って、ああこれか、と思う。率直に、めんどくせーだろうな、と思った。冬が夏になるくらいの極端な気候変動でも起きない限り、毎年四季は訪れ、夏も秋も冬も永遠に続くのだ。三井は死ぬまで垂れ幕を避けて道を選び、望まない遠回りをし続けるのだろうか。点滅し始めた信号を一瞥し、鉄男はズボンのポケットに手を突っ込んで、逃げるように足を早めた三井を追いかける。
駅前は人でごった返していた。地元住民の何倍もの人間が商店街を埋め尽くしている。遠方からわざわざ電車に乗って来るのだ。クソ暑い中ご苦労なことだと思う。むしろ、この混雑を避けるために、七夕祭りの日には外出しないという地元民もいるほどだ。鉄男には見慣れた光景だが、三井は「すげえ、なにこれ。やべー」などと驚嘆の声を上げていた。
商店街の入口に設置された笹飾りの前で三井が立ち止まる。笹の高さは三井の背丈の一・五倍くらいあるのだが、あまりにも多くの短冊が吊るされているせいで、その重さに耐えかねた笹の枝が地面につく勢いだ。人間のエゴを一手に引き受けさせられた笹が無言の悲鳴を上げているように見える。
「これって笹だっけ?」
「だろ」
「パンダが食うやつ?」
「パンダ見たことねえ」
「うそ。ガキんとき親と動物園とか行ったりしたことねえの?」
親とどこかへ行った記憶などほぼない。ただ、三井にそんな話をする気などなかったから「パンダはいなかったな」と適当にお茶を濁した。
三井は吊るされた短冊をひとつひとつ見て回りはじめた。喜色を浮かべる横顔を見て、意外とこういったことが好きなのだろうかと思う。
「なんか人のことばっか書いてんな」
「願いごとってのは本来そういうもんなんじゃねえか」
「どういうこと?」
「我欲じゃなくて無欲で祈るからいいんだろ」
「がよく?」
「自分の欲ってこと」
「なるほどなー。お前けっこう頭いいな」
三井に頭がいいと褒められても褒められた気がしなかった。それに、偉そうにぶったが、鉄男自身は何かに祈ったり願ったりしたことがない。神社で手を合わせたこともなければ、クリスマスにサンタクロースへプレゼントをねだったこともない。誰かが何かを無条件に与えてくれることなどなかった。だからこれは単なる知識、世の中的にはそういうことになっているよな、そういうことにしておいた方が社会は円滑に回るよな、という一般常識の話だ。
三井がこちらを振り向き「でもよぉ」と言った。
「これって誰に祈るんだ? 何が願いごと叶えてくれんだ? カミサマ?」
「さあな」
「星とか?」
「はは。そうかもな」
星に願いをとは言うが、星が願いを叶えてくれるという意味ではないだろう。星に祈って自分で叶えるのだ。でも、三井の単純バカな発想が面白くて、あえてそのままにしておこうと思った。
「書いてやるよ」
「あ?」
「お前の願いごと。人が書いた方が叶うんだろ? なんかねーの」
書きたいだけじゃねえのかと思ったが、ずっと曇っていた三井の顔が多少明るくなっているのを見て、茶番に乗ってやる気になった。「そうだな」とつぶやくと、三井は〝ご自由にどうぞ〟と書かれた白い箱へ手を伸ばし、長方形に切りそろえられた色とりどりの短冊からひときわ明るいブルーを選んだ。
「で?」
三井は黒いサインペンを手の中で器用に回す。高速で回転するペンが指に吸いついているようだ。よく落ちないもんだなと少し感心する。
「明日晴れますように」
「は?」
「洗濯もん溜まってっから、洗濯機回したいんだよな」
「はぁ? なんだよそれ。つまんねー。なんかこう、ねえのかよ。もっと。短冊に書くようなこと。ぜってー叶ってほしいなって思うこと」
「ない」
『なんかねーのか』『ない』の応酬を三度繰り返したあと、三井が折れて、本当に鉄男の言うままを短冊に書いた。素直なのかバカなのか粘りが足りないのか。たぶん全部だなと思った。
「お前は」
満足げに笹飾りを眺める三井へ投げる。
「え? あー……俺はいいや」
「そうか」
お前の願いごとなんか聞かなくても書けるけどな、とは口にしなかった。鉄男は三井からサインペンをもぎ取り、適当に短冊を選んで〝進級できますように〟と書いてやった。三井は「んだよ、それ」と口を尖らせたが、無視して鉄男は三井の掛けた短冊の隣へそれを吊り下げる。
「このあとどうすんだ」
どうするとはつまり家に来るのか、という意味だ。家に来るのかというのはつまり、そういう意味だ。
三井は汗に濡れたTシャツの襟元を開いて中へ風を送り込みながら、
「汗かいたからシャワー浴びたい」
と答えた。
***
翌日は雲ひとつない洗濯日和だった。隣から洗濯機を回す音が聞こえてきて、鉄男はめずらしく午前中にベッドから出た。隣の部屋の扉前で、外置きの洗濯機がまるで生きているかのようにガタガタと揺れている。地面と地続きの廊下に立ってタバコに火をつける。頭上に広がる空は高く澄んで、きのう三井が選んだ短冊の色のようだ。こんなに効力があると知っていたら三井の本当の願いごとを書いてやればよかった、となかば本気で思って、自分の心境変化に驚く。
「これも一緒に洗ってくれよ。汗がすげえ」
いつの間にかズボンだけを履いた上半身裸の三井がすぐ後ろに迫っていて、きのう着ていたTシャツを手に持った洗濯物の上へ置いた。
「その格好で帰る気か」
「お前のなんか貸して」
鉄男と目線の高さが揃うくらいになってから、三井はときおり服を貸してくれと言うようになった。貸すということは返しにくるということだ。だから鉄男は貸す。希望を短い約束に託して。
鉄男が短冊に書いた願いごとが叶うかどうかがわかるのは半年以上先だ。その時まで三井は隣にいるだろうか。自分に答え合わせをさせてくれるだろうか。部屋の中に戻った三井が「腹へったー」と呑気に言う声を聞きながら、鉄男は、三井のTシャツが足された汚れものを洗濯機へ投げ入れた。