つらい痛みに
嫌な予感が当たって南はため息をつく。午後に入ったくらいから違和感があった。違っていてほしいという希望にすがって、あえて確かめることをしなかったのだけど、外で夕食を取って、そのまま土屋が家に来て、夜になって、その時にはもう、疑いは確信へと変わっていた。
風呂上がりに洗面所の鏡の前で下唇を引っ張っていると、廊下へ通じる出入り口扉が外から叩かれた。続けて「入ってええ?」と土屋の声が聞こえ、南は口を開けたまま「んー」と返事をする。滑りの悪い引き戸が大きな音をたてて開き、南は唇に留めていた視線を上げる。狭い空間に滞留する湿った空気が動いて、背後からバスタオル越しの腰に腕が巻きついてきた。素肌の背中が体温を感知し、鏡に土屋の顔が映る。
「なにしてんの」
「おーないれん」
「なんて?」
舌足らずな発音を笑われる。唇から指を離して「口内炎」と言い直す。
「見して」
腰を抱く力が緩み、少し大きくなった腕の輪の中で身体を百八十度回転させる。洗面ボウルに軽く体を預けて立ち、土屋と向かい合う。
「どこ?」
下唇の真ん中あたりをつまんで裏返す。自分では見えないが、これで患部があらわになっているはずだ。
「うわぁ」土屋が小声で悲鳴を上げる。「白いしなんか穴開いてる。クレーターみたい。こわい!」
オーバーに反応する土屋を見上げながら少々呆れる。アフタ性口内炎くらい見たことがないのだろうか。土屋は、何度も顔の角度を変えて南の口の中を覗き込み、そのたびに「ひぃ」とか「いたそー」などと騒いだ。一度や二度なら許容するが、こうしつこく騒がれると、見せ物になっているような気がして不愉快だ。
「嫌やったら見んなや」
吐き捨てて口を閉じる。勢いで上の歯が患部に当たって鋭い痛みが走った。
「でも見たいねん」
へらりと言って、さらに「他のやつのやったらどうでもええけど」と調子のいいことをのたまう。
「痛い?」
「痛い」
南は口内炎ができやすい。片方の親が同じ体質を有しているので、おそらく遺伝なのだろう。良いものばかりに限らないのが相続とはいえ、継ぐか継がないかくらいは選ばせてほしいものだ。家業ゆえ、薬に困ったことはないのが救いか。
鏡横の収納棚から治療薬を取り出す。片手で握れば中にすっぽり収まってしまうほどの、小さなチューブタイプの口腔用軟膏。ステロイド成分が配合されていて抗炎症作用がある。あちこちにへばりつくベタベタした使用感が苦手だが、患部を保護して薬剤を密着させるためにはこれくらいの粘着性が必要なのだ。
「塗らして塗らして」
土屋が体を揺らして右手を差し出す。まるで子供だ。いまだに土屋のこういうところはよくわからない。他人の薬を塗りたがる気持ちは南には理解できない。もちろん仕事は別だ。
「手、キレイやろな」
「キレイやと思うけど、一応、洗うわ」
自分の手を見つめたあと、土屋は南と場所を入れ替わり、本当に手を洗い始めた。そこまでしてと思うが、楽しそうなのでまあいいだろう。どのみち塗らなくてはいけないことに変わりはないのだし。
「治るまでキスできへんな」
指先に軟膏を取りながら土屋がつぶやいた。別に心配してほしいわけではないが、言うに事欠いてそれかとは思った。思ったが、口にするほどではなかったので黙っていた。言えば、藪蛇になりそうな気もした。
「口開けて」
おとなしく土屋の指示に従う。土屋の体温で少しゆるんだ軟膏が唇に乗せられる。舌に付けばほんのりと甘さを感じる程度で、ほぼ無味無臭だ。表面に独特のざらついた感触がある。土屋は満足そうな表情を浮かべているが、この作業をやりたがる感性はやはりよくわからない。
「いけてる?」
舌先で患部をなぞって確かめる。「ん、たぶん」と言うと、土屋は軟膏を南へ返し、そばのティッシュケースから一枚引き出した。土屋が指を拭いている間に軟膏を元の位置へ戻す。唾液の分泌や食事で薬はすぐに取れてしまうから、日に何度か塗り直さないといけない。ついでに鏡で患部をチェックする。土屋を疑っているわけではないが、念のため。
「唇以外やったらええんや」
背後で土屋が吐いた言葉の意味がすぐには理解できなかった。「え?」と返しながら振り返ろうとした瞬間、洗面ボウルの縁にかけた両手に土屋の手が重ねられた。木綿シャツのあたたかくごわついた感触が素肌の背中を覆って、うなじにやわらかい熱が落ちてきた。思わず「あっ」とだらしない声が漏れてしまう。
「なにしてんねん」
「え、キス」
わかってるわ、と言おうとしたら、首筋を軽く噛まれた。一瞬息が止まって、音にならない喘ぎがこぼれる。吐き出そうとしていた言葉も輪郭を失ってしまった。なんとか身をよじって拘束から抜け出そうとするが、土屋が南の背中へ覆い被さるように体を預けているため、体勢を保つので精一杯だ。
耳たぶへ、首筋へ、うなじへ、背中へ、熱い吐息とともに唇が降りていく。粘膜が皮膚へ張り付いては離れる水音が静かな洗面所に響く。百均で買った安物の置き時計だけが規則的な音を立てている。最初はその音にシンクロしていた鼓動がどんどんと早まり、ついには秒針の速度を追い越してしまった。
「は……、あっ……」
死んでも口にはできないが、耳に届く自分の声に興奮してしまう。それを見透かしたようなタイミングで土屋が両手の指を絡めてきて、火をつけられたように全身が熱くなる。体の内側に溜まり続ける熱をなんとか散らしたくて、素足の指で床を踏みしめていたら、耳たぶに唇を滑らせながら、土屋が「見て」と言った。
目の前に鏡があることを忘れていた。鏡には欲にとろけたみっともない自分の顔が映っている。とても見ていられなくて南は顔を伏せる。すると、それを阻止しようとするかのように土屋の手がおとがいに伸びてきて、強引に上を向かされた。
「……あ」
「こんなええシチュエーションやのにもったいない」
いたたまれなくなって目を閉じる。もう、取れる対策がそれしかなかった。しかし、視覚を失った分、今度は聴覚と触覚がより研ぎ澄まされる羽目になった。土屋の唇が体中を這う感覚を必要以上に拾い上げてしまう。無駄にやさしい口づけの仕方がひどく残酷に思える。こんなものをいくら重ねられたところで前に進めない。永遠に足踏みを強いられているようなものだ。はっきり言って拷問だ。手は自由に使えるのに、他の場所を一切触ろうとしない。どこをどう通ればそこへ辿りつくのかよく知っているくせに、わざと脇道を通ろうとする。やみくもに高められる欲情が少しずつ苛立ちに変わる。いよいよ焦らされるのに耐えられなくなって、自由になる右手を鏡へつき、顎をつかまれたまま首を後ろへねじる。すぐそばにある土屋の唇を追いかけるが、ギリギリのところでかわされる。いいように翻弄される悔しさが欲しがる気持ちをよけいに煽る。
「……しよ」
我慢できなくなって口にした。なりふりかまわない行動を笑われてもいいと思った。
「なにを?」
「……キス」
それでも土屋は意地悪そうに眉を上げて見せ「してるやん」とはぐらかす。南は、眉根を寄せて体で違うと言う。
「痛いやろ」
「痛くてもええから」
「えらいかわいいこと言う」
言わせた自覚があるくせにと心の中で反発はしたが、茶番を続ける気はなかった。もう待てない。
前屈みの姿勢のまま抱きかかえられ、体の向きを変えられた。土屋と正面で向かい合った南は口を薄く開き、視線で早くとせがんだが、土屋は舌先で唇の表面をなぞっただけだった。患部のきわをかすめた舌先にはさきほど塗った軟膏がへばりついている。薬の味を確かめたかったのだろうか。
「ちょっと甘い」
「塗ったことないん?」
「僕、口内炎とかならんもん」
この痛みを知らずに一生を終える人間もいるのか。率直にうらやましい。
「ほんなら俺が痛いかどうかわからんやろ」
「そのぐらいわかるわ」
口内炎勝ち組に対する嫉妬もあり、余裕ぶって返す土屋の顔が憎たらしく思えた。首に両腕を回して抱きつき、こちらから唇を重ねる。
「ん!」
八つ当たりに舌を軽く噛んでやった。散々、好き勝手やってくれた仕返しも込めて。しかしそれが土屋の何かに火をつけたらしい。突然、思い切り体重をかけてきて、バランスを崩した南は浴室の折れ戸に背中からぶつかる。標準サイズではない成人男子二人分の体重を受け止めた扉は大きくしなった。壊れるのではないかと思ったがギリギリ耐えたようだ。もし壊れていたらその分の敷金は土屋に補填してもらおう。回した腕が首から外れて空を切り、あっ、と思っている間に両手首を捕らえられる。さらにはそれも扉に押し付けられ、完全に動きを封じられてしまった。
「痛ぁ」
土屋が舌先を突き出して挑発的な視線を送ってくる。嘘だ。そこまで強くは噛んでいない。
「痛ないやろ」
「わからんやろ」
「そのぐらいわかるわ」
実際に痛いか痛くないかなど、もうどうでもよかった。ただの言葉遊びだ。きっと土屋も同じように思っている。
「ま、痛くてもええわ」
土屋が笑って手首が解放された。抵抗の危険性はないと判断したのだろう。悔しいけれどその通りだ。自由になった両腕をふたたび土屋の首へ回す。右手は背中に、左手は腰へ置かれ、きつく抱き寄せられる。目を閉じると同時に唇が塞がれた。入ってきた舌をこちらから迎えにいって絡め取る。土屋の舌先から移される薬の味が甘い。口ではあんなふうに言いながら、土屋の舌は器用に患部を避けてくれている。それでも、口づけを深く交わすたびに、薬は唾液で少しずつ流れ出ていってしまう。夢中で求め合っているうちに、ベタつく軟膏の感触も味も口内炎の痛みもすべて、触れあう箇所から湧き上がる熱で溶かされて曖昧になっていく。気持ちよさが痛みを塗りつぶしていく。どう考えても、キスだけでは終わりそうにない。早めにベッドへ移動したほうが良さそうだが、なかなかタイミングをつかめない。お互いに貪り合うことをやめられない。
これはもう一回、風呂に入らなあかんやろな。薬も塗りなおさんと。
思考という役割を放棄しつつある頭の片隅に他人事のような言葉が横切ったが、それもあっという間に喉の奥へとすべり落ちていってしまった。