なんてったの僕に

 飼い始める時に自分から提示した条件のせいで、清田はどんなに眠い朝でも出掛けなければならない。昨日は練習を終えて帰宅したのが夜の十一時で、しかも今日どうしても落とせない英語のテストがあるため、一睡もせず夜通し単語帳とにらめっこをしていたにも関わらず、こうして早朝から犬の散歩に繰り出している。
 気を抜くと歩きながらでも寝られそうな強烈な眠気と格闘しながら、清田はほうほうの体でようやく折り返し地点の公園の前まで辿り着いた。リードを外し、公園内でひとしきり犬を遊ばせた後、さあ戻ろうと公園を出たところで突然犬がその場に『伏せ』の形でしゃがみ込み動かなくなってしまった。清田はリードを引いて立ち上がらせようとしたが、犬は頑として動こうとしない。
「おい、どうしたんだよ。もう十分遊んだだろ。帰るぞ」
 清田は犬をなだめすかしたり怒ったりとあれこれ手を変え品を変えしてみたが全て無視された。そうこうしているうちに清田は徹夜の疲れと空腹による苛立ちを感じ始めた。しかも腕時計を見れば出かける時間が迫って来ている。清田は大声で犬の名前を呼び、強引にリードを引いたがそれでも犬は抵抗し続けた。そしていよいよ清田の堪忍袋の尾が切れるかと思われた瞬間、背後からやって来た一台の自転車が清田のすぐ側を横切り、目の前の公園の入口で止まった。自転車の主は優雅な動きで自転車を降り、一人と一匹を振り返り見た。
「あ、流川」
 イヤフォンをはめている流川は清田の呼びかけが聞こえていないのか何も答えず、黙って自転車に鍵をかけた。そして一人と一匹を一瞥すると、すぐに彼らの状況を把握したようで、清田の背後へチラリと視線を遣った後、おもむろに犬に近づくと犬に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。流川は犬に一言二言何か話しかける素振りを見せた後、やさしく犬の頭を撫でるとイヤフォンを耳から外しながら立ち上がった。その間わずか三十秒弱。一連の流川の行動を不信そうに見守っていた清田が口を開こうとした瞬間、なんと今までどうやっても動こうとしなかった犬がすっと立ち上がったのだ。
「……おい! おまえこいつになんて言ったんだ! 俺がいくらやっても駄目だったのに……」
 驚いた清田は目を丸くしながら流川にそう詰め寄った。そして流川は平然とこう放った。
「Don't Think. Feel」
 清田がその意味を理解するより早く犬が走り出した。清田が引きずられるようにして去った場所を、今度は大型犬を連れた白人がゆったりと清田たちとは逆方向へ向かって通り過ぎて行った。
 そう、タネを明かせば何のことはない、清田の犬はこの大型犬が通り過ぎるのを待っていただけなのだ。道で犬同士がすれ違う際、通常は互いに挨拶を交わし合うのだが、明らかに自分よりも力の強い相手に対しては完全なる服従姿勢を見せて『わたしはあなたに逆らったりしませんからどうぞお先に』と意思表示をすることがある。おそらく今回はそのケースだったのだろう。子供の頃、流川も犬を飼っていたことがあり、清田の犬が動かなくなっているのとその後ろからそれより大きな犬が迫って来ているのを見てとっさにそうではないかと推測したのだった。そしてその勘は見事に当たったということだ。だから流川が何かしようとしまいと、そのまま待っていればいつかは犬は動いていたのだが、哀れな清田はそんなからくりを知る由もない。
 さっきとは打って変わって元気に走りまくる犬に必死でついて行きながら、清田は流川の言った英語の意味を考えていた。そのおかげというかせいでというか、一晩かかってようやく覚えた英単語はきれいさっぱり忘れてしまった。


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