食えない魚
公園の中心に立つ街灯がまたたいた。入口の車止めの前からそちらへ目を向けると、その下に集まった数匹の猫が頭を低くした警戒姿勢でじっとこちらをうかがっていた。いち、に、さん、し、ご……五匹。色も大きさもバラバラで、首輪を付けているものもいればいないものもいる。闇の中から十の目に容赦のない視線で射られていると、なにも悪いことはしていないのに、すみませんと謝りたくなってくる。音が立たないよう、手に持ったビニールバッグの持ち方を静かに変え、猫のかたまりに歩み寄ってみる。すると一斉にシャーッと牙を剥き威嚇してきた。さらにもう一歩踏み出すと、その細い脚からは想像もつかないおどろくべきバネを駆使して地面を蹴り、あっというまに茂みの中へ消えてしまった。
いつも通りの反応だけど、もちろん予想もしてたけど、やっぱりショックはショックだ。二メートルを超えるこの体躯のせいか、動物にはことごとく嫌われる。
『それ、嫌われてるんじゃなくて怖がられてるんじゃないですか?』 冗談めかして言ったのは仙道だ。校内に迷い込んだ子猫を抱え上げながら。あいつは動物と相性がいい。俺と同じくデカい身体をしているくせに。『俺とおまえでなにが違うっていうんだ』 ひとりごとのような俺のつぶやきに仙道は、『こうしてあげようとか思っちゃダメなんです。動物はそういうの察しちゃうから。相手がどうしてほしいかに寄り添うだけでいいんですよ』と、わかるようなわからないようなことを言った。
まあ、あいつは独自の感覚で生きてるところがあるからな。俺がどれだけ考えてもわからないものは一生わからないのかもしれない。
自分で言った『一生』というおおげさな言葉に自分で苦笑する。直後、背後で遠慮がちに俺の名前を呼ぶ声がした。
振り向いた先にいたのは牧だった。白い無地のTシャツにカーキのハーフパンツのいでたちで、ほほえみながら「偶然だな」と言った。
「なにやってるんだ?」
「仕事の帰りだ」
「仕事? ……ああ、例の板前の」
「よく知ってるな。陵南(ウチ)の誰かに聞いたか」
「こないだ海で偶然仙道に会ってな。そのときに話の流れで」
「どうせ餌の付いてない釣り竿で釣りでもしてたんじゃないか」
「ご名答。全然釣れてなかったけどなんか楽しそうだった」
「あいつ魚を釣りたいんじゃないんだよな。ただああしてるのが好きみたいで。ひどいときは竿垂らしながら寝てるときあるぞ」
「はは、めちゃくちゃ想像つくな」
「おまえは?」
「単なるランニング」
「練習やってから? だよな」
「そう。クールダウンて感じ。もう日課になってるからやんないと気持ち悪い」
「ストイックだな」
牧はそれに対して軽く口の端を軽く持ち上げてみせた。
「おまえだって学校終わって修行してるんだろ? お互い様だ」
「まあな」
苦労の種類もいろいろ。苦労を苦労と感じるボーダーラインもいろいろ。人生いろいろ。昭和なフレーズが出てくるのは、職場で演歌を聴かされる機会が増えたせいだろうか。
「あ、もう十時か。帰るよ。ドラマ観ないと」
「おまえドラマなんか観るのか?」
「俺がドラマ観てたらおかしいか?」
睨みをきかせてきた牧へ、俺はあわてて弁解する。
「いやいやそんなことはないよ全然」
牧は表情を崩し、俺の狼狽っぷりを笑いながら「冗談だよ」と言った。
「デカい図体して中身がそんなだから、なんかからかいたくなるな、おまえは」
「普通に失礼なんだが」
「はは、ごめんごめん。じゃあな。仙道によろしく。あと、一人前になったら店行くから呼んでくれよ」
「何年後になるかわかんないぞ」
「記憶力には自信があるよ」
そんな会話を最後に、俺たちは夜の公園を後にした。
◆
放課後、教室で宿題を片付けていると(仕事を終えて家に帰ってからではやる気力と時間がないので)入口で、
「魚さん」
と、声がした。
振り返る前に誰かわかった。俺をそう呼ぶのは仙道だけだ。
「おお、ひさしぶりだな」
現役のときは毎日嫌でも部活で顔を合わせていたのに、引退した途端、会う機会もめっきり減った。
「ちょっといいすか」
「なんだ? ていうか、おまえ部活は?」
「今から行くんすけど、その前に片付けなきゃいけないことができちゃって」
「片付けなきゃいけないこと?」
キャプテンが遅刻なんて言語道断だ。自慢じゃないが、俺は一度もしたことがない。
「でも、それには魚さんの力が必要なんです」
上目遣いで眉根を下げながら、意味深な言葉を並べ立てる。あの仙道にこんなふうに言われて気にならないやつがいたらお目にかかりたい。
「わかった。で、どこに行けばいいんだ」
「いや、ここでいいんですけど」
誰もいない教室へ仙道がひょこひょこと入ってきた。そして俺の机の前まで来ると、左手に持っていたなにかを机の上に置いた。白い半透明のコンビニ袋だった。そして縛ってある口をほどいて中身を指さした。
「これ持って帰ってくれませんか」
覗き込むと、生の魚が一匹入っていた。
「えぇ~! どうしたんだこれ……」
「いやぁ釣れちゃって。なんすかこれ?」
「ホウボウだ」
「ホウボウ? 食べられる魚?」
「もちろん。食べたことないのか?」
「ウチ、母親が魚苦手なんで。父親はできるんですけど、いま出張でいなくて。だから持って帰っても捌く人がいないんですよ」
「白身で脂がのっててうまい。刺身にも寿司ネタにもなる。高級魚だぞ」
「へぇ~」
「でも捌けなきゃどうしようもないけどな。キャッチアンドリリースすればよかったじゃないか」
「そうしようと思ったんですけどね。見てくださいよこれ」
右手を開いて目の前に差し出した。見ると人差し指の先が五ミリほど真横に切れていて、うっすら血が滲んでいる。棘が刺さったのか?
「針取ろうとしたら噛まれて、腹立ったんで帰してやるのやめたんです」
柔らかい笑みを浮かべて残酷なことを言う。見慣れた笑顔とのギャップに少しゾッとする。
「噛みはしないだろ、犬じゃないんだから……。吻先の小棘が刺さったんだよ、たぶん。それで練習大丈夫なのか?」
「血はほとんど止まったし、そんな痛みもないし、大丈夫だと思いますよ。それに休んだら釣りに行ってたのバレちゃうし」
「いや、もう思いっきりバレてるんだが」
「あれ~? そうでしたっけ?」
「まったく食えないやつだな」
ビニール袋の中のホウボウをのぞき込みながら言うと、
「え? 食べられるんでしょ?」
仙道は魚のことを言ったのだと思ったらしい。
「毒とかないですよね?」
「ん? ああ」
「よかったー。それだけちょっと心配してたんすよね」
能天気にそう言う仙道を見て、ちょっとしたいたずら心を起こす。
「……嘘だったらどうする?」
「なにがですか?」
「本当は毒があったら」
目を丸くした仙道は少し考えるようなそぶりを見せたあと、
「俺、魚さんのことは百パーセント信じてますから。だからもし魚さんにダマされて死ぬならそれでいいです」
満面の笑みで言った。ダマされるとか死ぬとか、どう吐いても重くなってしまうものなのに、まるで喜びの言葉のように聞こえる。こんなにポジティブに響かせてしまうのはなんなんだろう、ほんと、いったいこれは。
「実はあるんだ」
「またまた~」
「しかもおまえが手に刺した棘の部分に」
「……マジすか?」
「冗談だよ」
「はぁ~。よかったー。もうービビらせないでくださいよー」
「嘘つけ。本当はビビってなんかないんだろ?」
「そんなことないですよ。さっきも言ったじゃないですか。俺は魚さんの言うこと百パーセント信じるって」
「俺はおまえのことを百パーセントは信じられん」
「えぇ~ヒドいなぁ」
「おまえは自分のことをなんでも百パーセント信じるって言うようなやつを信用できるか?」
「その考え方、かなり性格悪いですよ」
「おまえに言われるならそれは褒め言葉だよ」
「マジでビックリしたんですから」
机に両手をつき、身を乗り出して訴えかける。
「わかったわかった。じゃあこれはこっちで引き取るから」
「じゃあお詫びに明日それお弁当にしてきてください」
お詫び? いつの間に俺が悪いことになってるんだ。
「弁当? 俺がおまえの弁当作ってくんの?」
「魚さんのも。で、一緒に屋上で食べましょうよ」
「はぁ!? なんで俺とおまえで彼氏と彼女みたいなことしなきゃいけないんだ!?」
「俺、魚さんのこと好きだからいいでしょ」
コンマ五秒で即答されて、返す言葉がなかった。それを仙道は勝手にOKと解釈しやがった。
「決まりー。じゃあ部活行ってきまーす」
俺の返事を待たずに仙道は教室から出て行った。机の上にはホウボウ入りのビニール袋が残された。
なるほど、これがモテる理由か。冗談だとわかっていながら本気にしたくなる。嘘か本当かはどうでもいいって気になる。俺がそんなこと理解したところでなんにもならないけど。
ビニールの中を覗き込んで、親指と人差し指で前の背ビレをつまみあげる。三角形の背ビレを左右に開くと、まるで翼のようになる。鶏冠のようにも見える。なんか仙道(あいつ)の頭みたいだ。
本当に食えない。食えるけど、食えない。