それさえあれば
訪ねた玄関先で岸本の母親が何度もまくしたてた「耳飾り」という言葉の古くささと、目の前にいる岸本の左耳に刺さる透明なそれの印象が一致しない。耳飾りと言ったら普通、真珠だろう。南の脳裏に、美術の教科書によって刷り込まれた偏見が過ぎる。「ほんまに開けるとは思わんかったわ」
高校の合格発表直後から、岸本がピアスを開けたがっていたことは知っている。岸本にはミーハーなところがあって、あれがええこれがええと、軽々しく口にするのは日常茶飯事だ。だから、ピアスもそのノリで言っているだけだと思っていたのに。
「ええやろ?」
岸本が誇らしげに左耳を突き出して見せる。案外、血は出ないものなんだなと思った。いつ開けたのか知らないが、せっかちな岸本の性格を鑑みれば、開けて間もないと考えるのが妥当だろう。
「結局、自分で開けたんか」
「だってお前が開けてくれへんから」
たしかに一度、『南、お前開けてえや』と頼まれた記憶がある。本当に開けるとは思っていなかったが、念のために断っておいてよかった。
「だって、てなんやねん。言うたやろ。なんかあっても責任取られへんから嫌やって」
「責任て大げさな。なんもないやろ。こんなちっさい穴やで」言って、岸本はまったく小さくない円を右手の親指と人差し指で作ってみせた。
「アホ。化膿は怖いんやで。ちゃんと前処置と後処置したんやろうな? 使う前にちゃんと針とか器具とか消毒したか? 傷口、素手でベタベタ触ってへんやろな?」
「まあ……一応」
岸本が口ごもる。これは適当にしかしていないな、と確信した。南の思う清潔と岸本の考える清潔には少なくない差がある。
「ちょっとウチ来い」
やや不服そうな岸本を部屋から連れ出し、南は自宅へ戻った。
「高校入ったら開けよう思ててん」
おとなしく南に処置をやり直されながら、手持ち無沙汰らしい岸本は勝手に話し出した。細かな作業に集中している南は、「そうなん」と適当な相槌を打つ。
二人揃って入学する予定の豊玉高校は、校則がゆるいと聞いている。指定の制服を着て真面目に授業に出てさえいれば、たいていのことは見逃される。髪型だって自由だ。学校見学に行った時にこの目で見たのだから間違いない。
「でも、まだ入ってへんやん」
「入学したらすぐバスケ部入るやろ? それまでに穴安定してた方がええやん。今やったら、さすがに見逃してくれるやろうし」
岸本の言うことはもっともだった。いくら校則で禁止されているからと言って、進学先の決まっているこの時期の三年生に、たかがピアスひとつの違反で重い処分を下す学校はないだろう。口頭注意くらいはされるかもしれないが。それに、絶賛伸ばし中の横髪が、岸本の耳をほどよく隠してくれている。よほど気をつけて見ないと気づきもしないかもしれない。
しかしなぜピアスを開けようと思ったのだろう。さきほども言ったように、岸本の「開けたい」を本気に捉えていなかったから、いままで理由を聞こうとも思わなかった。
「なんで開けよう思たん」
「かっこええから!」
「それだけ?」
「それだけで充分やろ。他に何が要んねん」
何が、と聞かれたら返答に困るのだが、体に不可逆な穴を開けるという医療行為と、それ以外の言葉を知らない子供が無邪気に発したような「かっこええから!」が、どうにも釣り合っていないように感じてしまう。
「もうええで」
処置を終え、ガーゼや消毒液を救急箱に片付けていく。その隣で岸本は、満足げな表情を浮かべて手鏡に見入っている。蓋を閉じた救急箱を膝に抱えて、壁掛け時計に目を流す。針を読んで視線を戻す途中、そばの鴨居にぶら下がっている空の木製ハンガーに目が留まった。そこには新しい高校の制服が掛かる予定になっている。今月の頭に、入学準備の一環として制服の採寸をした。製作にひと月ほどかかると言っていたから、届くのは来月の頭になりそうだ。半月後にそこへ収まるであろう制服を思い浮かべた瞬間、岸本の言い分がすとんと胸に落ちた。
『無茶かっこええやん豊玉て。最高や!』
「……せやな、それだけで充分やったわ」
半分は岸本に、残りの半分は自分に向けて言った。かっこいいから、かっこよかったから。それ以上でも以下でもない鉄のように安定した感情。鉄の意志という言葉はそこから来ているのかもしれない。などと考えていたら、岸本に「なにニヤニヤしてねん」と言われた。無意識に笑っていたらしい。普段、ほとんど感情を表情に出さない南だが、さすがにこれはニヤニヤぐらいしてもええよな、と思う。
あの日から何年待ったと思っているのだ。