古い友だち

 最寄り駅と予備校を繋ぐおよそ三百メートルの道は商店街になっている。八百屋や魚屋やたまご屋(たまごを一個単位で売ってくれる)が立ち並ぶ、昔ながらの古い商店街だ。なかなか活気があって、店が開いている時間は常に客足が絶えない。
 ただ、古いだけあって、今ではあたりまえの雨よけのアーケードが設置されていない。天気の良い日は陽射しが心地良いが、雨天の日は文字通り雨ざらしとなる。
 だが、不思議なことにここの買い物客たちはあまり傘を差さない。三井はそれをずっと疑問に思っていたのだが、先日ようやく謎が解けた。徒歩であれ自転車であれ、幅三メートルに満たない道路で傘を差したまますれ違おうとすると、どうしても人にぶつかってしまう。そのことを知っているから、みな、少々の雨や雪なら濡れて歩く方を選ぶのだ。
 その商店街の駅寄りの端に、個人経営の小さな古本屋がある。明日にも潰れそうなみすぼらしい見た目の、参考書や過去問題集の品揃えが異様に豊富なその店を三井に教えたのは木暮だった。
 きっかけは、部を引退し、一浪覚悟で大学を受験をする、予備校にも通うことにした、と話したときに三井が何気なくこぼした『参考書ってなんであんな高けーんだろな』というぼやきである。数日後、木暮は三井をここへ連れて来た。店へ向かう道すがら『よく覚えてたな』と云うと木暮はすかさず『大事なことだからね』と答えた。もともと知っていたのか、わざわざ三井の通う予備校の近くで探してきたのか、その答えを三井は知らない。聞かなかったからだ。もし後者だったらお互いに気を遣うし、おそらくその可能性が高いと思った。木暮がそういう奴だということを、三井は他の誰よりもよく知っている。

 のんびり歩いていると陽が傾いてきた。
(冬だからってすぐ沈みやがる。もっと働けっつーんだよ) 
 夕日へ悪態をつきつつ、三井は面倒そうに鞄からメガネケースを取り出した。慣れない試験勉強に本腰を入れ始めたせいか、急激に視力が下がりつつあるのだ。すでに通い慣れているといっていい道だし、まだ陽もかろうじて残っているから、普段ならかけずに済ませるところだが、あいにく今日は待ち合わせをしているので相手の顔を判別できないと困る。
 時代遅れの古本屋の軒先で、店内から漏れる黄色い灯りに照らされて待ち人は立っていた。遅れてきたのは三井のほうなので、正確には〈待たされ人〉か。
「おまたせ」
 ゆっくりと振り返った木暮の顔が、一瞬、ゆらぐ。眼鏡の縁に夕日が反射したのだ。出会った頃から変わらず着けている銀縁の眼鏡は、すでに木暮を形成するパーツの一部になっていて、それがない顔を見るとき、三井はいまだに知らない誰かと対峙しているような感覚に陥る。
「悪ぃな。寒いのにこんなとこまで呼び出して」
「いいよ。ちょうど俺も探したい本あったし」
 そう言って笑った木暮を見て三井は、やっぱり古本屋がよく似合う、と思う。初めてここへ来たときにもそう思った。その内にそれぞれ限りない物語を有しながら、じっと棚に収まって物言わぬ本たち。その静かな佇まいが木暮に似ていると感じる。
 立て付けの悪い木枠のガラス扉をこじ開けて入ると、店内に他の客はおらず、一番奥のレジに馴染みの老店主が木彫りの置物のように座っている。その足元には年季の入った石油ストーブがひとつ。店内で動くものは、そのストーブの上に置かれたやかんから立ちのぼる湯気と壁掛け時計の振り子だけだった。
 停滞したあたたかい空間。その中で、ストーブからゆらゆらと上がる蜃気楼めいた空気を眺めているとだんだん思考が鈍ってくる。
 ぼんやりした頭で、三井は目当ての書籍タイトルを書き留めたメモの存在を思い出し、Pコートのポケットを探った。
(あれ? ない)
 一瞬、落としたかと不安になったが、そんなはずはなかった。予備校出るときに確認し、間違いなくポケットに入れた。その感触を指が覚えている。それからポケットには一度も触っていない。ポケットの裏地はキュプラで、つるっとした感触が肌に冷たい。しつこくまさぐっていると一ヶ所だけ感触の違う場所があって、そこへ指先が吸い込まれた。
(あっ、穴あいてる)
 結局、その穴の奥にメモはあった。指を突っ込んで引きずり出すと、メモはくしゃくしゃに丸まってしまっていたが、もともとノートの切れっぱしだったので、読めれば問題はない。
 この、三井が愛用している濃紺のPコートは、高校に入るとき、さんざんねだって親に買ってもらったものだ。値段までしっかり覚えている。五万九千九百八十円。税込み。毎冬、毎日、通学に使ってきたから、色はすでに濃紺というより青だ。あちこち毛玉だらけだし、袖口はほつれている。「みっともないから、いいかげん新しいの買えば」と親からも言われているのだが、変に愛着が沸いてしまってなかなか捨てるに捨てられない。
 メモを片手に三井は店内を物色する。それなりの回数を通っているので慣れたものだ。なにがどこにあるのかもだいたい把握している。
 鉄板の入ったワーキングブーツで踏みしめるたび、経年変化で飴色に変色した床が沈んで軋む。
 ぎしっ、ぎーっ、ぎし。
 ぎしっ、ぎーっ、ぎし。
 静かな店内にリズムが刻まれる。
 その隙間へ木暮の声が滑り込んできた。
「それ、あっちにあったぞ」
 メモを盗み見た木暮がささやく。そして、三井が返事をするより早く、棚に本を探しはじめた。
「あんまり安くなってないけど。でも良い本だよな、これ」
「ああ……サンキュ」
 礼を述べながら、渡された本を手に三井は困惑する。 こんな気持ちをいままで何度も感じてきたと思ったからだ。なんというか、一方的に〈もらっている〉感じ。ひどくうれしくて、同時にひどく苦しい感じ。
「なあ、俺が大学受かったらおまえうれしい?」
「え? なに、急に」
「いや、なんとなく」
「そりゃあうれしいよ。友達が合格して喜ばないやつなんていないと思うぞ」
「そっか……」
 トモダチ。
「そうだよな……」
 ト・モ・ダ・チ。
 ばらけた文字が三井の頭の中で回転する。ごうん、ごうんと、まるでコインランドリーの乾燥機で転げ回る洗濯物のように。
「木暮、おまえ大学でもバスケやんだろ?」
 その問いを、木暮は唐突だと思った。しかし三井にとっては至極、必然だった。
「ああ、いや」
 木暮はめずらしく動揺した。あからさまに目が泳いだため、鈍い三井もさすがに勘づいた。
「それが、どうしようかなと思ってて」
「え? そうなの?」
「うん、理由がな……」
 今度は三井が動揺する番だった。答えが意外すぎたからだ。
「理由?」
 理由。理由とはいったいなんの理由か。
 決まっている、バスケを続ける理由だ。
(は、ばかばかしい)
 自分のことを棚に上げて三井はそう思う。
「そんなんやりたいかやりたくないかだけじゃねえの?」
 声に薄く笑いをにじませ、茶化したポーズでごまかしながら、本音では、自分にそんなことを言う資格などないと三井は知っていた。同感だったのか、はたまた否定するつもりだったのか、木暮もはっとした表情を浮かべた。しかし、結局はいつもの笑顔でオチをつけて、ジ・エンド。
「そうだよな。理由なんかいらないよな。変なこと言った。ごめんごめん」
 木暮が頭に浮かべただろうものを三井は理解していた。それをあえて口に出さなかったわけも。
 三井は、ずるいなあ、と思う。そして、そのずるさに甘えている自分はもっとずるい、とも。
 手元の本へ向かってうつむいたまま、木暮は指先でメガネを上げた。この三年間で何回、何十回、何百回と見た仕草だ。正確には二年のブランクを挟んだ暫定的三年間だが。
 ふいに昔のことが過ぎる。三井は思いついたように棚からなるべく分厚い赤本を選んで手に取り、ページの繰り音に混ぜてそれを口にした。
「体力つけるため、とかでいいじゃん」
 すぐに指が最終ページに辿りついて繰り音が止む。なにか言い返してくるかと思ってしばらく身構えていたが、木暮は黙ったままだった。
(聞こえなかったのかな)
 生来の不器用さのせいで、これくらいしかやり方を知らない三井は、自分で身の置き場をなくした。居心地の悪さをごまかすため、唇の端を歯でしがむ。まるでこどもだ。
 はじめは甘噛みだったものが、徐々にエスカレートする。つい力を入れすぎてしまい、乾燥した皮が広範囲にべろりとめくれた。にじんでくる血を舌で舐めとると、じわっと口の中に鉄の味が広がる。思いの外、深くえぐれてしまったらしく、三井は次から次にあふれ出てくる血を舌先で止血する作業に追われた。
 そこまできて、ようやく木暮が口を開いた。そして、目を本へ伏せたまま眉尻を下げ、『風邪、引かないようにしないとな』とひとりごとのように言った。
 結局、聞こえていたのかいなかったのか。三井は確認することができなかった。
 居眠っていた店主が目を開け、ゆっくりとやかんの取っ手に手をかける。湯が手元の急須に注がれると、するりと白い湯気が立ちのぼり、茶のいい香りが狭い店内に香った。(けっこういい茶葉だな)三井は店主の趣味に一目置いた。

「やっぱおまえに来てもらってよかったわ。サンキュな」
「そう。よかった」
 すっかり日は落ちきって、北風が冷たい。店を背に立ったまま話す二人の影が、店内の灯りに照らされて地面に落ちている。まるで自分たちの体温が可視化されたように三井は錯覚した。
「それしてるとぜんぜん印象違うな。最初、知らない人に声かけられたかと思った」
 影の中で木暮の口元が揺れ、続いて声が耳に届く。 三井はなぜか不満げに、黙ってメガネを外した。しかし、暗がりのせいでその表情は木暮には見えない。
「大丈夫? 外したら見えないんじゃないの」
「普段はかけてねーから」
 裸眼だと遠くの看板の文字が読みにくい程度だ。しかし、それは昼間に限ってのことで、闇夜ではもう少し不便になる。現に今も、一メートルほどの距離にいる木暮の顔が少しぼやけている。しかしそれは三井にとって都合がよかった。
「メシ食ってかねぇ? おごるぜ」
 そう言って、声は思ったよりも心に近い、と三井は知る。とくに三井のような感情がすぐ表に出てしまう人間には扱いがむずかしいシロモノだ。
「いいよ」
 その瞬間、ぽつりときた。三井と木暮は、ほぼ同時に空を仰ぐ。
「折りたたみでよかったら傘あるけど」
 木暮が鞄に手を入れる。取り出された赤いチェック柄の傘をしばらくじっと見つめたあと、三井は静かに首を横に振った。
「いい。このままいこう」
 木暮はひとこと、「そう」と言うと、そのまま黙って傘をしまった。
 雨の商店街を、三井は店を探す〈てい〉でわざとゆっくり歩き出した。雨はゆるやかにだが次第に強まりそうな気配を醸しており、急いだ方がよさそうだったが、木暮は何も言わず三井の足どりにあわせている。
 三井は肩をすくめてポケットに手を入れ、身体を縮めた。こっそり隣をうかがったが、一定のリズムで白い息を吐く以外はまったくいつもの木暮だった。ただ、静かに歩いている。
 雨が身を切る寒さを加速させる。もう、穴のあいたくたびれコートでは足りない。しかし、年季の入ったコートは身体の形にぴったりと沿ってあまりに着心地が良く、そのため三井はなかなかそれを手放せない。


サイトへ戻る