奴のシャツ

『ほっておいてやりたくなるんですよ』
『ああ』
『一応、叱らなきゃとは思うんですけど』
『おっしゃってることわかりますよ』
『なんなんでしょうねえあれは』
『雰囲気というかキャラというか』
『わたしらがそんなこと言ってちゃいけないんですけどね』
『まあね』

 視聴覚教室から教室へ戻る途中、職員室から漏れ聞こえてきた談笑。
 話題の主は今日も今日とて窓際の最後列を指定席に気持ちよさそうな寝息を立てている。袖ぐりが大きめの白い半袖シャツから伸びた長い腕を机上にだらりと伸ばして。
 胸ポケットの周辺に黄色い染みが点々とついている。そういえば昼休みに食堂でカレーを食っているところを見かけた。その数時間前には教室で菓子パンを早弁してた気もする。
 腹が空けば食べ、満腹になれば眠くなり、眠くなれば寝る。おそろしいほど欲求に素直だ。
 でもだからなのかな。こうして堂々とサボってても不思議と腹が立たないのは。
 寝顔を眺めながら教師たちの会話を反芻する。数日前に梅雨が明けて空が急に夏味を帯びた。輪郭のはっきりした密度の高い雲が筍のように地面から空へ向かってぐんぐんと伸びている。

 カレーの一件をきっかけに、仙道がしばしばシャツにいろいろなものをつけてくることに気づいた。
 退屈な授業のヒマつぶしも兼ねてそれを観察してみることにした。日付、場所、色、大きさ、その他をノートの端に書き付ける。もちろん、品のいい趣味ではないことは自覚しているので他言はしない。

 七月十五日、朝。
 牛乳。朝食をかき込んできたせいだろう。
 同日、昼休みを挟んでもうひとつ。
 橙色が胸元のボタンの間にみっつよっつ。こちらはオレンジジュースっぽい。

 七月十六日、朝。
 襟元にパンのカスと赤いなにか。いちごジャム?

 七月十七日、朝。
 めずらしくなにもなし。
 二限目の休み時間に左肩口に直径十センチ超えの染み。
 たぶん、よだれ。

 七月十八日、朝。
 茶色い斑点。コーヒー牛乳。背後のロッカーに空のブリックパックが置いてある。

 七月十九日、昼。
 ボタンとボタンの間に濃いめの茶色。
 二限目のあとの休み時間に焼きそばパンを早弁してたのでたぶんそのソース。

 そして今日、七月二十日。
 いつもと同じ起き抜けの顔で教室へ入ってきた仙道は、どこかいつもよりよけいに眠たそうに見えた。またすぐに机へつっぷすのだろうと思って見ていたら、自席についたあとは窓の外へうつろな視線を投げはじめた。なにか心配事でもあるような目つきで。
 普段と違う様子をいぶかしみながら、なかば習慣になっている染みチェックのため視線を白い背中に流した。
 見つかったのは肩胛骨あたりから腰に向かって伸びる数本の赤っぽいライン。四本あって、左から二番目が一番長く、目をこらさないと見えないくらい薄い。変わった染みだなと思ったが、見ているうちにどうも染みではないように思えてきた。それはむしろなにかに引っ掻かれたふうの――。
 そう思いついた瞬間、握っていたペンを落としてしまう。あ、とまぬけな声が出た。
 ペンは飴色の床を仙道の足元へ向かってゆっくりと転がっていった。気づいた仙道が頬にあてていた手を外し、腕を伸ばして拾い上げてくれる。
「はい」
 差し出されたペンをおずおずと受け取る。
「あのさ…」
 視線を手の中のシャープペンに逃がして問う。
「ん?」
「いや……いいや」
「なんだよ。言えよ」
「おまえ猫とか飼ってたっけ?」
「え? オレ寮じゃん」
「あっそうか」
 的外れの質問をしてしまったことを後悔する。どう収拾を付けようかと思案していると、仙道がふっと息を吐くように笑った。
「でも猫は好きだよ。きまぐれでわがままでこっちの思い通りにならないところが、かわいい」
 一拍挟んで、かわいい、と笑った瞳に一瞬、意味ありげな光が差したように見えた。だが細められた目は長い睫毛に覆われていて、その奥をうかがい知ることはできない。
 オレが言葉をみつくろっているうちに始業のチャイムが鳴り、結局その話はそこで立ち消えになってしまった。そして仙道はなにごともなかったかのようにいつもどおり夢の中へと落ちていった。

 子供じみたふるまいはカモフラージュなのかもしれない。
 そう思ったら急にすやすやと眠る横顔にはじめて腹が立った。


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