さくらと和彦
今読むとあの二人がいちばん悲しい。個人的には灯台組より絶望を感じる。当時はあれを一種の美しさだと考えていたところがあったんだけど、今はそんなふうには思えないですねえ。中学生に自ら生きることを諦めさせるって罪深いよ。深読みするなら、あのくだりは三村叔父の言う「本当に美しくあろうとしたらこの国では生きていられない」への皮肉にもとれる。たとえ表向きだけであったとしても、妥協して無抵抗主義を掲げるならどんなにみじめにぶざまになっても生き続けなくてはいけない、ということなのかなあと。百パー言い切る自信ないけど。だからあの二人には生きていって欲しかったですよ。プログラムに参加させられた時点でそれはもう叶わぬことだとさくらは思ったんでしょうけど、七原と典子が〝二人で〟生き延びたことを考えると、そこにも諦めるなのメッセージが含まれている気がするんだよね。作者が意図したかどうかは別にして。常識や当たり前を疑って戦い続けろってことかなと。そういう面で捉えると、反体制反権力反大人反常識を軸に据えた深作の映画版アプローチは決して間違ってはいなかったが、ほかの何かが間違ってたんだ。笑
さくらと山本ってセットだけど、〝彼女の価値観に殉じる〟って表現を見ても実質的にはさくらだ。もちろんそのさくらが選んだ相手って意味では山本なんだけど、さくらありきで見てしまうと、どうしても彼は少し記号的に見える。
彼女があの状況であの決断をなしえたのは、普段からその選択肢を心中に持っていたという証拠だと思うんだよね。自分が死ぬ可能性と大事な人が死ぬ可能性。さくらの告白の中にテーブルの話があったけど、あそこすごく生々しい。父親が殺された記憶とごはんが結びついてる、生きることを支える食事と死が一緒になってる描写に、何度読んでもうっとなる。映画『グレムリン』で、登場人物の女性が自分の子ども時代を語るシーンに『クリスマスにサンタを待っていたけど来なくて、煙突を見たら中から出てきたのはお父さんの燻製だった。(子供を驚かせようと煙突に入ったら出られなくなってそのままいぶされて死んだ)だからクリスマスは嫌い』って絶望的なエピソードが出てくるんだけど、それと同じで食事のたびに父親の死を思い出すってことだよね。血の臭いと食事の匂いが記憶を誘発する感じ。警官がそこまで計算してタイミングを狙ったのかどうかはわからないけど、もしそうだったら最悪にゲスだ。でもあの国の設定ならやりかねない。
さくらが同級生たちより大人びて見えたっぽく書かれているのは、山本と肉体関係を持ってたってのもあるだろうが、そういう精神の持ちようによるところも大きかったんじゃないかと思う。大人になるってそういう側面でもあるから。
山本って相手を得たときから、彼女が最悪の事態をシュミレーションしてた……って思うとほんともう絶望しかない。
StingのFragileという曲がさくらのイメージです。