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七原と和美さんと三村

  • 2019/05/24 18:05
  • カテゴリー:考察

『ロックサクソフォンを吹かせるとほかの男子部員の誰よりもうまかった』

『ちょっといつも世間ずれした感じの大人びた表情で』

『めちゃくちゃにかっこよかった。秋也をどきどきさせた』

『難しいギターコードの押さえ方を教えてくれた』

『誰よりも和美さんに聞いてほしかった』

 

七原が和美さんを褒めちぎるくだりで、七原の愛情の向け方と向きやすい相手、方向性がよくわかる。あんまり書いてこなかったけど(全く書いていないわけではない)今後もし七三を書くことがあれば、これがベースになると思う。

 

「ああ。好きだね。死ぬまで好きだと思うぜ」←

三村家の一族

結婚相手にそういう女を選んだ(選ばされた?)父親含め、三村の母親の人生ポジション取りなんか見てると、父権が強く女が弱い保守的な家系なのかなーと思う。

三村は父親だけじゃなくそんな母親も見下しの対象にしてるっぽいので、反動で千草みたいな女の趣味になったのかもしれない。つきあって上手くいくかどうかはさておき。

そんなことを考えていると、実際問題、三村の両親嫌悪に叔父がどれくらい関与していたのかなというようなことに行き当たります。三村叔父がどこまで自覚して信史教育をやってたかなんですよねー。

保守的な家系で叔父みたいな人間がつまはじきにされてただろうことは想像できるし、家庭に居場所がなかったからその代わりを別のところに求めてって、大学あたりで反政府思想を持つクラブ的なところに入ってったとか。安易ですけど。あの国であの活動をするなら実家からは半勘当みたいなことになっててもおかしくない。

叔父は三村家の墓に入れたんだろうか

やっぱり沼桐が好き

今、充の脳裏に、随分前からたった一つだけ気がかりだったことが蘇っていた。それはずっと、大したことではないと思って、ずっと心の隅っこで起こりをかぶらせていたことだった。つまり、

 彼は、桐山和雄の笑顔を一度も見たことがなかったのだ。

――BATTLE ROYALE(新書版) 101ページより

 

大したことです。(きっぱり) 二年も一緒にいる友だちの笑顔を一度も見たことがないなんて普通じゃないだろう。だけど、沼井なら、まあ、ありえるかもなー、と思わせるなにかがあいつにはある。性格ももちろんだけど、沼井は桐山を“対等な友人”と認識していなかったようには読めるから。

 沼井にとって桐山は言葉通り〝ボス〟だったわけで、素直に読めばそこには、桐山:沼井=主:従の関係が成立していたのね。が、同時に沼井自身は、自分たちをトレーナーとボクサーの関係に例えている。ボクサーを育てるとき、決定権を持つのはトレーナーなので、主従で言うなら、トレーナーが主でボクサーが従の関係だろう。もし沼井が桐山に全ての指示を仰ぎそれに従うという図式なら単なる主従関係ということになるが、彼らは逆だった。沼井の指示決定に桐山が従っていた、ということになる。育てながら従ってたみたいな? うーん、ややこしい。

 実際、プログラム以前に桐山が沼井にこうしろと指示を出したことはないように読めるので、もしそういう場面が訪れた場合、沼井がどうしたかは想像するしかないんだけど、あの南の端で「ゲームに乗る」としたことを、最初で最後の桐山から沼井に対する〝命令〟だったと捉えるのはまあありだと思う。だから沼井が早くあそこに着いていたらと思うんだよ。いつもみたいに沼井が決定していたらってねえ。桐山に決めさせるのはお前のポリシー的に違うだろ沼井、と。言いたい

早く言いたい。(RG)

でも、毎日べったりの友人関係でひとかけらも笑顔を見せない相手に〝大した〟疑問も抱かず付き合える沼井はある意味すごいと思う。もしかしたら、そういう相手と付き合うのに慣れてたのかな。親があんまり子供に興味ないタイプで、冷たくあしらわれることが当たり前だったとか。もしそうだったとしたら、桐山の「こういうのもおもしろいんじゃないか」という〝つぶやき〟も、沼井にとっては自分の提案を、ひいては、沼井自身を肯定する言葉に聞こえたのかもしれない。それがうれしくて、また新しいことを桐山に提案し、またそれを受け入れられる。それが沼井にとってなによりの喜びだったのかもしれない。

そこまで深読みすると、単なる主従関係だけでなく、得られなかった父親と息子の親子関係の再構築にも思えてくる。

単純馬鹿に見えて実は闇が深かったのか、沼井。

川田と三村もその切り口で取り上げられそうな気がするんだけど、いかんせん接点が少なすぎるのと、三村の場合はそこにもう一枚叔父というフィルターがかかってくるのでややこしさが沼井と桐山の比じゃないという。

ユリイカインタビュー読んだよ

先日、件のユリイカに掲載された高見広春インタビューが読めました。yさんありがとう。その中で作者が光子と桐山について言及してるんだけど、これがちょっといろいろ言いたくなる内容でしてね。読んでない方も多いと思いますので、引用しつつあーだこーだやってみたいと思います。まずは該当部分をご覧ください。

 

それで、その相馬さんの場合はしかし、そうした倫理を排除できるだけの価値体系を持っているんです。もちろん不幸にも、ということですが。いわゆる児童虐待の犠牲者ですが、胸くそ悪いことにそういうことは実際にあるんですね。それで彼女は、彼女なりの価値観を組み立てて、もう奪われる側はごめんだ、と結論したわけです。この世界が所詮その程度の世界であるなら、こっちもそのつもりでやってやる、と。お話の中にはもう一人サイコ的な子がいるんですが、それは専門的な知識はないんですが、サイコパス殺人鬼の脳外傷の話とかあってそれはそれで怖いなと思って二つ入れたんですね。言わば、先天的な要素と、後天的な要素と。

――ユリイカ1999年12月号 高見広春インタビューより

 

城岩中学校3年B組42人の中に〝サイコな子〟が2人いて、後天的要因による光子と先天的要因による桐山(桐山ははっきり固有名詞出されてないけども。むしろここまで書いといてなぜ名前だけ伏せた)という異なる2種類の異物がクラスメイトの中にいたら普通に怖いし読み物としても面白いんじゃないかと思ったということですね。

たしかに、中学校のクラスメイト同士でバトルロイヤルやるって構想をベースにしたらば、おそらく大方の生徒の行動は一般的な倫理観の枠を大きくははみ出ない、というか出せないからな。香川の田舎の中学生だったらなおさら。でもそれじゃエンタメとしてつまらないですから、〝ぶっとんだ行動をするキャラクター〟を何人か配置することにしたんだと思う。主人公3人は別枠として、桐山、光子、三村、杉村、あたりがその役割を担ってる。千草は行動だけ見たらわりと普通で微妙なんだけど、いくら極限状況だといっても目に指突っ込むとかチンコ潰しとか実際なかなかできないし、台詞も冷静に考えたらわりと全体的に痛い感じなので入れてもいいかもしれない。

二人の話からすこし逸れた。戻します。

この書き方だと着想は光子が先でそこから桐山が生まれたっぽく読めるけど、実際は塑像状態の二人の設定が相互作用しあって少しずつ出来上がっていった感じかもしれない。いずれにしても、二人は〝一般的な倫理観とまったく別軸のところで生きている人間としてのキャラクター〟という意味で存在理由が共通している。だからどこかしら同じ場所から発生した感がある。二卵性双生児、あるいは、アダムの肋骨からイブが作られた的な、と言ったらちょっと風呂敷広げすぎか。

光子と桐山の相似性についてはまあこんな感じです。

で、もうひとつ引っかかったのは〝サイコ的な子〟という表現。たぶん読む人のほとんどがここに反応すると思うんだけど、〝サイコ的な子〟であって〝サイコパス〟ではないってことに気をつけて見ていきたい。このインタビューから桐山がサイコパスか否かという議論を持ちだしてくるのは違う気がすんだよね。と言いつつ、このあいだ本誌を読ませてもらった現場では自分もそこの議論に終始してしまったんだけど、家に帰って読み直したら、ちょっと反応するところズレてるなって思い直した。で、いまこれ書いてます。

〝サイコ的な子〟って表現自体曖昧だし、なんだそれって思うわけです。でも、表現が曖昧なのは自覚的にそこまでにとどめたのかなって思うところもある。なんでかっていうと、作者はインサイダーでも『エンターテイメント性』をなにより大事にしていると断言していて、究極的には光子と桐山もその増強剤としてのキャラクターなわけです。二人のキャラクターを立たせるための支柱となるバックグラウンド、光子の場合は児童虐待、桐山は脳外傷性サイコパスだけれども、それそのものについて深く掘り下げるつもりはなかったんじゃないかなー。だから二次創作で掘り下げがいがあるとも言えるが。

余談だけど、『専門的な知識はない』と断りを入れているのは、もしかしたら読者から〝医学的見地からみると桐山のような症例は存在しない〟みたいな〝トンデモ設定だ〟的な指摘を受けたのかもな。ありえなくはないが、大東亜共和国ってもっとでっかいトンデモ設定に比べたらそこは枝葉レベルだろうと思いますけどね。

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せっかくなので、桐山がサイコパスかどうかという議論、についても置いておきます。個人的見解よ。

一般的なサイコパス犯罪者って究極の利己主義傾向があるけど、桐山にはそれすらない。サイコパスは自分の中に一般的な倫理観とはまったくリンクしていない自分だけのルールがあってそれに従って生きているんだけれど、、桐山はそのルールもない。いっこ前の記事でも書いたけど、プログラムに乗るか乗らないかをコインで決めたのはその判断基準が自分の中になかったからだ。だから、桐山を純粋なサイコパスだというのはちょっと違うんじゃないかと思う。

サイコパスという言葉を使ったのは当時の空気もあったのかもしれないけどな。1991年の羊たちの沈黙(映画)を筆頭に90年代はプロファイリングが流行った時代だったし、より多くの読者に伝えることを優先したいがためにすでに浸透している文脈の中の言葉を用いることはよくある話。その結果、伝わりはしたが話し手の真意からは遠ざかってしまったなんてのもよくある話。

屁理屈こねたけど、単純に誌面に書かれた言葉通りの意図だった可能性もある。実際どうだったかは想像するしかありませんなー。

さくらと和彦

今読むとあの二人がいちばん悲しい。個人的には灯台組より絶望を感じる。当時はあれを一種の美しさだと考えていたところがあったんだけど、今はそんなふうには思えないですねえ。中学生に自ら生きることを諦めさせるって罪深いよ。深読みするなら、あのくだりは三村叔父の言う「本当に美しくあろうとしたらこの国では生きていられない」への皮肉にもとれる。たとえ表向きだけであったとしても、妥協して無抵抗主義を掲げるならどんなにみじめにぶざまになっても生き続けなくてはいけない、ということなのかなあと。百パー言い切る自信ないけど。だからあの二人には生きていって欲しかったですよ。プログラムに参加させられた時点でそれはもう叶わぬことだとさくらは思ったんでしょうけど、七原と典子が〝二人で〟生き延びたことを考えると、そこにも諦めるなのメッセージが含まれている気がするんだよね。作者が意図したかどうかは別にして。常識や当たり前を疑って戦い続けろってことかなと。そういう面で捉えると、反体制反権力反大人反常識を軸に据えた深作の映画版アプローチは決して間違ってはいなかったが、ほかの何かが間違ってたんだ。笑

さくらと山本ってセットだけど、〝彼女の価値観に殉じる〟って表現を見ても実質的にはさくらだ。もちろんそのさくらが選んだ相手って意味では山本なんだけど、さくらありきで見てしまうと、どうしても彼は少し記号的に見える。

彼女があの状況であの決断をなしえたのは、普段からその選択肢を心中に持っていたという証拠だと思うんだよね。自分が死ぬ可能性と大事な人が死ぬ可能性。さくらの告白の中にテーブルの話があったけど、あそこすごく生々しい。父親が殺された記憶とごはんが結びついてる、生きることを支える食事と死が一緒になってる描写に、何度読んでもうっとなる。映画『グレムリン』で、登場人物の女性が自分の子ども時代を語るシーンに『クリスマスにサンタを待っていたけど来なくて、煙突を見たら中から出てきたのはお父さんの燻製だった。(子供を驚かせようと煙突に入ったら出られなくなってそのままいぶされて死んだ)だからクリスマスは嫌い』って絶望的なエピソードが出てくるんだけど、それと同じで食事のたびに父親の死を思い出すってことだよね。血の臭いと食事の匂いが記憶を誘発する感じ。警官がそこまで計算してタイミングを狙ったのかどうかはわからないけど、もしそうだったら最悪にゲスだ。でもあの国の設定ならやりかねない。

さくらが同級生たちより大人びて見えたっぽく書かれているのは、山本と肉体関係を持ってたってのもあるだろうが、そういう精神の持ちようによるところも大きかったんじゃないかと思う。大人になるってそういう側面でもあるから。

山本って相手を得たときから、彼女が最悪の事態をシュミレーションしてた……って思うとほんともう絶望しかない。

StingのFragileという曲がさくらのイメージです。

三村の〝ナンバーワン〟は瀬戸なんですよ

このあいだ #自分の都合の良いように解釈しまくったキャラクターを構築しなおしてみようの会 というのをフォロワーさんと立ち上げました。自己創作にフィットさせたいがためにキャラクター像をゆがめてしまうことってありますよね? これはそうなってしまったキャラクターに対して今一度原作に忠実な解釈を試みてみよう、という趣旨の会です。その一発目を三村にしました。原作読み返したら完全に三村のシーンは瀬戸無双だったわけです。あとちょっと叔父。杉村なんか一瞬思い出すだけなわけですよ。杉三とかめっちゃ針の先でつついた穴程度なんですよ。よく見たら穴もあいてなかったかもしれない。なんなら、リアタイの頃、一時期血迷ってハマった飯島三村のほうがまだ可能性ある。それに比べたら三村瀬戸は超王道、今風にいうと公式が最大手なわけです。だから逆に手をつける気にならないという人もいるだろう。わたしだ。

ただ、手をつけるにせよつけないにせよ、自分の三村像がウルトラQのオープニング映像レベルでゆがんでしまった原因のひとつは、間違いなく瀬戸との関係をスルーしてきたせいであり、そこを抜きに真の三村像に到達することはできないのではないか、と思い至ったわけであります。

普段三村に対してひどいことばっか言ってますけど、これでも自覚はあるんですよ、たちが悪いことに。同時に軌道修正したいなって気持ちもずっとあったんですよ。良く言えば原点回帰というか。後出しだけれども、pixivの3年B組追悼記念(毎年涼さんが企画してくださってます)の2013年版で書いた三村叔父の「花になれ」はその一端でした。あと今はサイトから下げてるけど三村三部作もけっこう真面目に原作読んで書いたはず。あとなんかあった気がするけど忘れた。あっ、思い出した、リアタイでやってた頃、一番初めに書いたイラスト! 全部で三枚あってそのうちの一枚が三村と瀬戸のシーでした。残りの二枚は杉村と琴弾、あと川田単体だったな。(イラストはpixivに上がってます。〝国防委員長@大東亜共和国〟のアカウントのほう)それを鑑みても、最初はこじらせてなかったんですよ。だからやろうと思えばできるはず。できるはず。できるよね?

疑問については、三村家の家庭不和と妹(郁美)と瀬戸との関係、のあたりをベースに自分なりの答えを出そうと思ってます。できれば物語の形で出せればと思いますが、いつになるかわからないので期待しないでお待ちください。

名前

わたしは殺し合いゲームの設定自体に思い入れがあるわけではないので、オリバトとかパロロワは書かないし読まないんですけど名簿と舞台設定はたまに見ます。見てて思うのは、けっこう突飛な名前にしてる人多いなーってことです。いわゆるDQNネームみたいなの。もちろん、そうじゃないのもたくさんあるけど。

それを考えると原作は性格と名前が乖離してるキャラは少ないと思う。七原秋也はあんまり合ってないし、音の響き自体も好きじゃないんですが、逆に信史は信史でよかったなあと心から思う。下の名前で呼びたくなる名前っぽいキャラでいてくれたという意味で。

でもネーミングにおいて誰が一番秀逸かって言ったら典子です。典子って本当に典子って感じだよ。今まで典子という名前の知り合いがいたことはないんですが、『典子という名前の女イメージ像』は頭の中に完全に出来上がってる不思議。基本的に良い子で、持論は正論。身持ちは固くて一途。一言で言うと姑がうちの息子の嫁にしたいって言いそうなタイプ。好きか嫌いかって言われたらつまんなそうなので好きじゃないです。人としては正しいんだろうけど。想像だけど、彼女、コンプレックス持ってる人間が避けたがるタイプかなと思う。典子と信史とか最高合わないだろう。

もしかしたら『子』が付いてるのがそう思わせるのかなと思ったけど、じゃあもし幸子だったら? 違うな。これじゃ赤色エレジーかって感じだ。そしたら七原が一郎か。それはそれであり……いや、ない。あの作品で湿っぽい悲壮感漂わせたら駄目だよな。かといって和子でも久美子でも裕子でも洋子でもなんか違う。やっぱり典子なんですよ。これ以上ない的確なネーミングだと思います。典子。

シンジとユタカ

今さら言うこともないでしょうが三村が好きです。というわけで今日は、あえてここまでほぼノータッチを貫き通してきた豊の存在をあらためて考えてみたいと思います。

三村が豊に執着する理由がわからなかった、という体で豊を書くのを避けてきました。ま、根本的なところで豊に食指が動かなかったっていうのもあるけど、メインで扱うのは無理でも三村を書くためのコマとして豊を使うこともできたはずで、それすらしなかったのはやっぱり三村が豊を必要としているという設定を受け入れたくなかったからなんだろうな。つまり豊をキャラとして好きになれなかったということです。

でも原作に則って考えるなら三村の相手は豊(BL的な意味ではなく)というのは抗いようのない事実で。原作派を自負しているくせに豊を無視してるってのは矛盾してるんじゃねーかと今さら、ほんと今さらだけど思ったわけです。

三村と豊をあえて真逆の位置づけにして対比させ、三村に欠けている部分を補ってくれる相手として豊を設定したって意図が作者の中にあったんだろうってことは推測できるし理解もできる。自分が他人を本心から好きになれない、信用できない人間だってことをわかっている三村が(中学3年でそこまでガチガチに固める必要もないと思うけど)、金井泉の一件を通して豊にはその自分ができないことを自然にできる才能があるってことに気づくくだりも、二人の関係性を成立させる裏付けとしては機能してる。だけどなんとなくすっきりしないモヤモヤした気持ちはなんなんだろうってずっと思ってて、じゃあ逆に三村と豊に共通する要素ってなんだろうって考えた時にそれは笑いなんじゃないかって。

絶望の中に置かれた人間が唯一希望を見いだせるものって笑いなんじゃないだろうかって意見はもういろんなところで目に耳にするので手垢のつきまくった考え方ですが、作者もどこかでこの考え方を持っているような気がする。インサイダーも原作も本棚の奥なので裏取らずに書いてるけど、どこかでそのあたりに言及したことあったかもしれない。三村と豊の関係性および三村の豊に対する入れ込み方とか執着の理由を紐解く入口はここなんじゃないかと思ったわけですね。

でもここには根本的な問題が。あの二人、笑いの質が違うように思うんだよな。

三村の皮肉やブラックジョーク的な笑いで相手に「笑わせる笑い」に対して豊は道化を演じて雰囲気を明るくするだけの「笑われ笑い」なんだよな。いわゆる「明るいやつ」と「おもしろいやつ」の違いが二人にはある。お互いないものねだりって言えばそうなのかもしれないけど、豊の楽しさはいじめられっ子がいじめられながらも苦肉の策で作る愛想笑いみたいに見えてわたしはちょっとあまり好きではありません。豊を好きになれない理由は能力のなさから三村の足手まといになったからでも、見た目でも、幼稚な自己保身のために三村の計画をぶちこわしたことでもなく、その笑いのセンスが相容れないからなんだってことに最近ようやく気づきました。苦節十年、長い道のりだった。

今後豊をどう扱っていくかはまだ未知数ですが、これである程度消化した感じがするのでなんとか書ける、かもしれません。

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