先日、件のユリイカに掲載された高見広春インタビューが読めました。yさんありがとう。その中で作者が光子と桐山について言及してるんだけど、これがちょっといろいろ言いたくなる内容でしてね。読んでない方も多いと思いますので、引用しつつあーだこーだやってみたいと思います。まずは該当部分をご覧ください。
それで、その相馬さんの場合はしかし、そうした倫理を排除できるだけの価値体系を持っているんです。もちろん不幸にも、ということですが。いわゆる児童虐待の犠牲者ですが、胸くそ悪いことにそういうことは実際にあるんですね。それで彼女は、彼女なりの価値観を組み立てて、もう奪われる側はごめんだ、と結論したわけです。この世界が所詮その程度の世界であるなら、こっちもそのつもりでやってやる、と。お話の中にはもう一人サイコ的な子がいるんですが、それは専門的な知識はないんですが、サイコパス殺人鬼の脳外傷の話とかあってそれはそれで怖いなと思って二つ入れたんですね。言わば、先天的な要素と、後天的な要素と。
――ユリイカ1999年12月号 高見広春インタビューより
城岩中学校3年B組42人の中に〝サイコな子〟が2人いて、後天的要因による光子と先天的要因による桐山(桐山ははっきり固有名詞出されてないけども。むしろここまで書いといてなぜ名前だけ伏せた)という異なる2種類の異物がクラスメイトの中にいたら普通に怖いし読み物としても面白いんじゃないかと思ったということですね。
たしかに、中学校のクラスメイト同士でバトルロイヤルやるって構想をベースにしたらば、おそらく大方の生徒の行動は一般的な倫理観の枠を大きくははみ出ない、というか出せないからな。香川の田舎の中学生だったらなおさら。でもそれじゃエンタメとしてつまらないですから、〝ぶっとんだ行動をするキャラクター〟を何人か配置することにしたんだと思う。主人公3人は別枠として、桐山、光子、三村、杉村、あたりがその役割を担ってる。千草は行動だけ見たらわりと普通で微妙なんだけど、いくら極限状況だといっても目に指突っ込むとかチンコ潰しとか実際なかなかできないし、台詞も冷静に考えたらわりと全体的に痛い感じなので入れてもいいかもしれない。
二人の話からすこし逸れた。戻します。
この書き方だと着想は光子が先でそこから桐山が生まれたっぽく読めるけど、実際は塑像状態の二人の設定が相互作用しあって少しずつ出来上がっていった感じかもしれない。いずれにしても、二人は〝一般的な倫理観とまったく別軸のところで生きている人間としてのキャラクター〟という意味で存在理由が共通している。だからどこかしら同じ場所から発生した感がある。二卵性双生児、あるいは、アダムの肋骨からイブが作られた的な、と言ったらちょっと風呂敷広げすぎか。
光子と桐山の相似性についてはまあこんな感じです。
で、もうひとつ引っかかったのは〝サイコ的な子〟という表現。たぶん読む人のほとんどがここに反応すると思うんだけど、〝サイコ的な子〟であって〝サイコパス〟ではないってことに気をつけて見ていきたい。このインタビューから桐山がサイコパスか否かという議論を持ちだしてくるのは違う気がすんだよね。と言いつつ、このあいだ本誌を読ませてもらった現場では自分もそこの議論に終始してしまったんだけど、家に帰って読み直したら、ちょっと反応するところズレてるなって思い直した。で、いまこれ書いてます。
〝サイコ的な子〟って表現自体曖昧だし、なんだそれって思うわけです。でも、表現が曖昧なのは自覚的にそこまでにとどめたのかなって思うところもある。なんでかっていうと、作者はインサイダーでも『エンターテイメント性』をなにより大事にしていると断言していて、究極的には光子と桐山もその増強剤としてのキャラクターなわけです。二人のキャラクターを立たせるための支柱となるバックグラウンド、光子の場合は児童虐待、桐山は脳外傷性サイコパスだけれども、それそのものについて深く掘り下げるつもりはなかったんじゃないかなー。だから二次創作で掘り下げがいがあるとも言えるが。
余談だけど、『専門的な知識はない』と断りを入れているのは、もしかしたら読者から〝医学的見地からみると桐山のような症例は存在しない〟みたいな〝トンデモ設定だ〟的な指摘を受けたのかもな。ありえなくはないが、大東亜共和国ってもっとでっかいトンデモ設定に比べたらそこは枝葉レベルだろうと思いますけどね。
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せっかくなので、桐山がサイコパスかどうかという議論、についても置いておきます。個人的見解よ。
一般的なサイコパス犯罪者って究極の利己主義傾向があるけど、桐山にはそれすらない。サイコパスは自分の中に一般的な倫理観とはまったくリンクしていない自分だけのルールがあってそれに従って生きているんだけれど、、桐山はそのルールもない。いっこ前の記事でも書いたけど、プログラムに乗るか乗らないかをコインで決めたのはその判断基準が自分の中になかったからだ。だから、桐山を純粋なサイコパスだというのはちょっと違うんじゃないかと思う。
サイコパスという言葉を使ったのは当時の空気もあったのかもしれないけどな。1991年の羊たちの沈黙(映画)を筆頭に90年代はプロファイリングが流行った時代だったし、より多くの読者に伝えることを優先したいがためにすでに浸透している文脈の中の言葉を用いることはよくある話。その結果、伝わりはしたが話し手の真意からは遠ざかってしまったなんてのもよくある話。
屁理屈こねたけど、単純に誌面に書かれた言葉通りの意図だった可能性もある。実際どうだったかは想像するしかありませんなー。