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2011年01月の記事は以下のとおりです。

ヤンチャン第二話

第一話を読み終えた段階で頭をよぎったことだけど、これは『完全新作』じゃないだろう。灯台組を掘り下げて描くのはいいけど、それならそれでちゃんと『灯台組の真実』て謳った方がよかったと思う。詐欺とまでは言わないけど、あのコピーで高見広春の新作が読めると思って買った人間はちょっと騙された気になるかもよ。逆に『灯台組の話なら読みたい』って思ったかもしれないファン層も取りこぼしてる可能性もある。

ただそう(灯台組の話だと)打ち出しても元々の原作ファンを全部取り込めたかは怪しいところだ。出版から十年以上経ってるし、リアルタイムでファンだった人間はそこそこいい歳になってるはずで、わざわざ買ってまで読もうとする人間がはたしてどれくらいいるのか……。せいぜい会社の行き帰りにコンビニで立ち読みする程度じゃないか? 編集部が一体どの層をターゲットにしてこの企画を立てたのか知りたい。企画ありきだったのか高見さんからのアプローチだったのかも。しかし仮に高見さんの要望だったとしたら小説の形で出そうとするだろうから、きっとコミカライズの企画ありきだったんだろうな。3Dの公開で起こるかもしれないリバイバルブームにあやかれれば御の字、というようなところかもしれない。

我ながら厳しいことばっか言ってると思います。読んでおられる方の中には『おまえファンなんじゃねーのか?』と思われているかもしれませんが、これはファンだからこそなんですよ。

今のところ出てきた新設定は、はるかが同性愛者だってことと、幸枝(委員長)の父親が軍人だってことぐらい。幸枝は軍人の父親を嫌っているようで、そのことが七原に抱いている好意のバックグラウンドになってるんじゃないかとの邪推はできる。だけど、これはわたしに原作の内容が予備知識として入っているから可能なんであって、何の予備知識もないまま読んだ場合、物語としてどうなんだという疑問が沸く。

他の掲載作品を目当てにヤンチャンを買ってる人はこの漫画をどう見てるんだろうか。むしろ飛ばし漫画にされてたりして。自分がジャンプ買ってた時はキャプ翼がそうだったな。>飛ばし漫画

第3号は2月8日発売です。

ヤンチャン第一話

ざくっと言うと、はるか目線で語られる『灯台組』の話です。原作では描かれなかった『灯台組に何が起こったか?』というもの。そして意味ありげな宣伝文句によって物議を醸していた『百合なのか?』という問いの答えはイエス。はるかが委員長に対して恋心のようなものを抱いています。はるか自身は自らが『同性愛者』であると自覚しており、そのことを揶揄して『あたしはヘンタイだ』と言い切っているのですが、ただ、これが本格的な同性愛者のそれかと聞かれたらうーん、どうかな。男子に対する、あるいは自分の女性性に対する否定・拒絶の表れのようなものかもしれないという可能性も否定できない。もちろんまだそこまで描かれてないし、描かれない可能性も大だけど(あくまでもプログラム中の話だから)、そもそも高見さん、これって後付け? それとも元設定だったの? 原作読んでそれなりに感じるものがあった人間からしたらそこハッキリしてくださいと言いたい。編集部にメールしてやろうか。

第2号は次週火曜25日発売です。

百合ロワ

新作バトロワは百合らしい、と盛り上がっているようです。ソースはコミックナタリー。紹介文中の『女委員長に思いを馳せる女子生徒が主人公』の一文が妄想を掻き立てているんだろう。

まだ実物見てないんでなんとも言えないんですが。

どうでもいいこと

  • 2011/01/11 23:15
  • カテゴリー:雑記

わたしは高見広春を特別贔屓の作家には位置づけていません。バトロワも作品としては好きだけど、高見さんを好きな作家って括りには入れてない。これはわたしにとって『好き』の対象になるのは、その中にいくばくか自分の表現指標となりうるものがあるということが条件だからでR。そういった意味ではバトロワは当てはまらないのでR。あの独特の文体も、ギャグセンス(と言うのか微妙だが)も実はあまり好みではないのでR……。(しつこい)

バトロワコミカライズ

「バトル・ロワイアル」完全新作が来年ヤンチャンで始動

明後日1/11発売のヤンチャンで連載スタートだそうです。とりあえず立ち読みで済まそうとしてますがファン失格でしょうか。

高見広春が原作を書き下ろしたというので、少しだけ期待してます。舞台設定がいつなのかわからないけど、どうせ今やるなら現代にして欲しいよなぁ。ただ高見さんがそこまで時代とリンクした脳みそでいるかというところに一抹の不安はあるのだが……。

シンジとユタカ

今さら言うこともないでしょうが三村が好きです。というわけで今日は、あえてここまでほぼノータッチを貫き通してきた豊の存在をあらためて考えてみたいと思います。

三村が豊に執着する理由がわからなかった、という体で豊を書くのを避けてきました。ま、根本的なところで豊に食指が動かなかったっていうのもあるけど、メインで扱うのは無理でも三村を書くためのコマとして豊を使うこともできたはずで、それすらしなかったのはやっぱり三村が豊を必要としているという設定を受け入れたくなかったからなんだろうな。つまり豊をキャラとして好きになれなかったということです。

でも原作に則って考えるなら三村の相手は豊(BL的な意味ではなく)というのは抗いようのない事実で。原作派を自負しているくせに豊を無視してるってのは矛盾してるんじゃねーかと今さら、ほんと今さらだけど思ったわけです。

三村と豊をあえて真逆の位置づけにして対比させ、三村に欠けている部分を補ってくれる相手として豊を設定したって意図が作者の中にあったんだろうってことは推測できるし理解もできる。自分が他人を本心から好きになれない、信用できない人間だってことをわかっている三村が(中学3年でそこまでガチガチに固める必要もないと思うけど)、金井泉の一件を通して豊にはその自分ができないことを自然にできる才能があるってことに気づくくだりも、二人の関係性を成立させる裏付けとしては機能してる。だけどなんとなくすっきりしないモヤモヤした気持ちはなんなんだろうってずっと思ってて、じゃあ逆に三村と豊に共通する要素ってなんだろうって考えた時にそれは笑いなんじゃないかって。

絶望の中に置かれた人間が唯一希望を見いだせるものって笑いなんじゃないだろうかって意見はもういろんなところで目に耳にするので手垢のつきまくった考え方ですが、作者もどこかでこの考え方を持っているような気がする。インサイダーも原作も本棚の奥なので裏取らずに書いてるけど、どこかでそのあたりに言及したことあったかもしれない。三村と豊の関係性および三村の豊に対する入れ込み方とか執着の理由を紐解く入口はここなんじゃないかと思ったわけですね。

でもここには根本的な問題が。あの二人、笑いの質が違うように思うんだよな。

三村の皮肉やブラックジョーク的な笑いで相手に「笑わせる笑い」に対して豊は道化を演じて雰囲気を明るくするだけの「笑われ笑い」なんだよな。いわゆる「明るいやつ」と「おもしろいやつ」の違いが二人にはある。お互いないものねだりって言えばそうなのかもしれないけど、豊の楽しさはいじめられっ子がいじめられながらも苦肉の策で作る愛想笑いみたいに見えてわたしはちょっとあまり好きではありません。豊を好きになれない理由は能力のなさから三村の足手まといになったからでも、見た目でも、幼稚な自己保身のために三村の計画をぶちこわしたことでもなく、その笑いのセンスが相容れないからなんだってことに最近ようやく気づきました。苦節十年、長い道のりだった。

今後豊をどう扱っていくかはまだ未知数ですが、これである程度消化した感じがするのでなんとか書ける、かもしれません。

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