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三村家の一族

結婚相手にそういう女を選んだ(選ばされた?)父親含め、三村の母親の人生ポジション取りなんか見てると、父権が強く女が弱い保守的な家系なのかなーと思う。

三村は父親だけじゃなくそんな母親も見下しの対象にしてるっぽいので、反動で千草みたいな女の趣味になったのかもしれない。つきあって上手くいくかどうかはさておき。

そんなことを考えていると、実際問題、三村の両親嫌悪に叔父がどれくらい関与していたのかなというようなことに行き当たります。三村叔父がどこまで自覚して信史教育をやってたかなんですよねー。

保守的な家系で叔父みたいな人間がつまはじきにされてただろうことは想像できるし、家庭に居場所がなかったからその代わりを別のところに求めてって、大学あたりで反政府思想を持つクラブ的なところに入ってったとか。安易ですけど。あの国であの活動をするなら実家からは半勘当みたいなことになっててもおかしくない。

叔父は三村家の墓に入れたんだろうか

三村の〝ナンバーワン〟は瀬戸なんですよ

このあいだ #自分の都合の良いように解釈しまくったキャラクターを構築しなおしてみようの会 というのをフォロワーさんと立ち上げました。自己創作にフィットさせたいがためにキャラクター像をゆがめてしまうことってありますよね? これはそうなってしまったキャラクターに対して今一度原作に忠実な解釈を試みてみよう、という趣旨の会です。その一発目を三村にしました。原作読み返したら完全に三村のシーンは瀬戸無双だったわけです。あとちょっと叔父。杉村なんか一瞬思い出すだけなわけですよ。杉三とかめっちゃ針の先でつついた穴程度なんですよ。よく見たら穴もあいてなかったかもしれない。なんなら、リアタイの頃、一時期血迷ってハマった飯島三村のほうがまだ可能性ある。それに比べたら三村瀬戸は超王道、今風にいうと公式が最大手なわけです。だから逆に手をつける気にならないという人もいるだろう。わたしだ。

ただ、手をつけるにせよつけないにせよ、自分の三村像がウルトラQのオープニング映像レベルでゆがんでしまった原因のひとつは、間違いなく瀬戸との関係をスルーしてきたせいであり、そこを抜きに真の三村像に到達することはできないのではないか、と思い至ったわけであります。

普段三村に対してひどいことばっか言ってますけど、これでも自覚はあるんですよ、たちが悪いことに。同時に軌道修正したいなって気持ちもずっとあったんですよ。良く言えば原点回帰というか。後出しだけれども、pixivの3年B組追悼記念(毎年涼さんが企画してくださってます)の2013年版で書いた三村叔父の「花になれ」はその一端でした。あと今はサイトから下げてるけど三村三部作もけっこう真面目に原作読んで書いたはず。あとなんかあった気がするけど忘れた。あっ、思い出した、リアタイでやってた頃、一番初めに書いたイラスト! 全部で三枚あってそのうちの一枚が三村と瀬戸のシーでした。残りの二枚は杉村と琴弾、あと川田単体だったな。(イラストはpixivに上がってます。〝国防委員長@大東亜共和国〟のアカウントのほう)それを鑑みても、最初はこじらせてなかったんですよ。だからやろうと思えばできるはず。できるはず。できるよね?

疑問については、三村家の家庭不和と妹(郁美)と瀬戸との関係、のあたりをベースに自分なりの答えを出そうと思ってます。できれば物語の形で出せればと思いますが、いつになるかわからないので期待しないでお待ちください。

シンジとユタカ

今さら言うこともないでしょうが三村が好きです。というわけで今日は、あえてここまでほぼノータッチを貫き通してきた豊の存在をあらためて考えてみたいと思います。

三村が豊に執着する理由がわからなかった、という体で豊を書くのを避けてきました。ま、根本的なところで豊に食指が動かなかったっていうのもあるけど、メインで扱うのは無理でも三村を書くためのコマとして豊を使うこともできたはずで、それすらしなかったのはやっぱり三村が豊を必要としているという設定を受け入れたくなかったからなんだろうな。つまり豊をキャラとして好きになれなかったということです。

でも原作に則って考えるなら三村の相手は豊(BL的な意味ではなく)というのは抗いようのない事実で。原作派を自負しているくせに豊を無視してるってのは矛盾してるんじゃねーかと今さら、ほんと今さらだけど思ったわけです。

三村と豊をあえて真逆の位置づけにして対比させ、三村に欠けている部分を補ってくれる相手として豊を設定したって意図が作者の中にあったんだろうってことは推測できるし理解もできる。自分が他人を本心から好きになれない、信用できない人間だってことをわかっている三村が(中学3年でそこまでガチガチに固める必要もないと思うけど)、金井泉の一件を通して豊にはその自分ができないことを自然にできる才能があるってことに気づくくだりも、二人の関係性を成立させる裏付けとしては機能してる。だけどなんとなくすっきりしないモヤモヤした気持ちはなんなんだろうってずっと思ってて、じゃあ逆に三村と豊に共通する要素ってなんだろうって考えた時にそれは笑いなんじゃないかって。

絶望の中に置かれた人間が唯一希望を見いだせるものって笑いなんじゃないだろうかって意見はもういろんなところで目に耳にするので手垢のつきまくった考え方ですが、作者もどこかでこの考え方を持っているような気がする。インサイダーも原作も本棚の奥なので裏取らずに書いてるけど、どこかでそのあたりに言及したことあったかもしれない。三村と豊の関係性および三村の豊に対する入れ込み方とか執着の理由を紐解く入口はここなんじゃないかと思ったわけですね。

でもここには根本的な問題が。あの二人、笑いの質が違うように思うんだよな。

三村の皮肉やブラックジョーク的な笑いで相手に「笑わせる笑い」に対して豊は道化を演じて雰囲気を明るくするだけの「笑われ笑い」なんだよな。いわゆる「明るいやつ」と「おもしろいやつ」の違いが二人にはある。お互いないものねだりって言えばそうなのかもしれないけど、豊の楽しさはいじめられっ子がいじめられながらも苦肉の策で作る愛想笑いみたいに見えてわたしはちょっとあまり好きではありません。豊を好きになれない理由は能力のなさから三村の足手まといになったからでも、見た目でも、幼稚な自己保身のために三村の計画をぶちこわしたことでもなく、その笑いのセンスが相容れないからなんだってことに最近ようやく気づきました。苦節十年、長い道のりだった。

今後豊をどう扱っていくかはまだ未知数ですが、これである程度消化した感じがするのでなんとか書ける、かもしれません。

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