シンジとユタカ
今さら言うこともないでしょうが三村が好きです。というわけで今日は、あえてここまでほぼノータッチを貫き通してきた豊の存在をあらためて考えてみたいと思います。
三村が豊に執着する理由がわからなかった、という体で豊を書くのを避けてきました。ま、根本的なところで豊に食指が動かなかったっていうのもあるけど、メインで扱うのは無理でも三村を書くためのコマとして豊を使うこともできたはずで、それすらしなかったのはやっぱり三村が豊を必要としているという設定を受け入れたくなかったからなんだろうな。つまり豊をキャラとして好きになれなかったということです。
でも原作に則って考えるなら三村の相手は豊(BL的な意味ではなく)というのは抗いようのない事実で。原作派を自負しているくせに豊を無視してるってのは矛盾してるんじゃねーかと今さら、ほんと今さらだけど思ったわけです。
三村と豊をあえて真逆の位置づけにして対比させ、三村に欠けている部分を補ってくれる相手として豊を設定したって意図が作者の中にあったんだろうってことは推測できるし理解もできる。自分が他人を本心から好きになれない、信用できない人間だってことをわかっている三村が(中学3年でそこまでガチガチに固める必要もないと思うけど)、金井泉の一件を通して豊にはその自分ができないことを自然にできる才能があるってことに気づくくだりも、二人の関係性を成立させる裏付けとしては機能してる。だけどなんとなくすっきりしないモヤモヤした気持ちはなんなんだろうってずっと思ってて、じゃあ逆に三村と豊に共通する要素ってなんだろうって考えた時にそれは笑いなんじゃないかって。
絶望の中に置かれた人間が唯一希望を見いだせるものって笑いなんじゃないだろうかって意見はもういろんなところで目に耳にするので手垢のつきまくった考え方ですが、作者もどこかでこの考え方を持っているような気がする。インサイダーも原作も本棚の奥なので裏取らずに書いてるけど、どこかでそのあたりに言及したことあったかもしれない。三村と豊の関係性および三村の豊に対する入れ込み方とか執着の理由を紐解く入口はここなんじゃないかと思ったわけですね。
でもここには根本的な問題が。あの二人、笑いの質が違うように思うんだよな。
三村の皮肉やブラックジョーク的な笑いで相手に「笑わせる笑い」に対して豊は道化を演じて雰囲気を明るくするだけの「笑われ笑い」なんだよな。いわゆる「明るいやつ」と「おもしろいやつ」の違いが二人にはある。お互いないものねだりって言えばそうなのかもしれないけど、豊の楽しさはいじめられっ子がいじめられながらも苦肉の策で作る愛想笑いみたいに見えてわたしはちょっとあまり好きではありません。豊を好きになれない理由は能力のなさから三村の足手まといになったからでも、見た目でも、幼稚な自己保身のために三村の計画をぶちこわしたことでもなく、その笑いのセンスが相容れないからなんだってことに最近ようやく気づきました。苦節十年、長い道のりだった。
今後豊をどう扱っていくかはまだ未知数ですが、これである程度消化した感じがするのでなんとか書ける、かもしれません。