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2015年08月26日の記事は以下のとおりです。

ユリイカインタビュー読んだよ

先日、件のユリイカに掲載された高見広春インタビューが読めました。yさんありがとう。その中で作者が光子と桐山について言及してるんだけど、これがちょっといろいろ言いたくなる内容でしてね。読んでない方も多いと思いますので、引用しつつあーだこーだやってみたいと思います。まずは該当部分をご覧ください。

 

それで、その相馬さんの場合はしかし、そうした倫理を排除できるだけの価値体系を持っているんです。もちろん不幸にも、ということですが。いわゆる児童虐待の犠牲者ですが、胸くそ悪いことにそういうことは実際にあるんですね。それで彼女は、彼女なりの価値観を組み立てて、もう奪われる側はごめんだ、と結論したわけです。この世界が所詮その程度の世界であるなら、こっちもそのつもりでやってやる、と。お話の中にはもう一人サイコ的な子がいるんですが、それは専門的な知識はないんですが、サイコパス殺人鬼の脳外傷の話とかあってそれはそれで怖いなと思って二つ入れたんですね。言わば、先天的な要素と、後天的な要素と。

――ユリイカ1999年12月号 高見広春インタビューより

 

城岩中学校3年B組42人の中に〝サイコな子〟が2人いて、後天的要因による光子と先天的要因による桐山(桐山ははっきり固有名詞出されてないけども。むしろここまで書いといてなぜ名前だけ伏せた)という異なる2種類の異物がクラスメイトの中にいたら普通に怖いし読み物としても面白いんじゃないかと思ったということですね。

たしかに、中学校のクラスメイト同士でバトルロイヤルやるって構想をベースにしたらば、おそらく大方の生徒の行動は一般的な倫理観の枠を大きくははみ出ない、というか出せないからな。香川の田舎の中学生だったらなおさら。でもそれじゃエンタメとしてつまらないですから、〝ぶっとんだ行動をするキャラクター〟を何人か配置することにしたんだと思う。主人公3人は別枠として、桐山、光子、三村、杉村、あたりがその役割を担ってる。千草は行動だけ見たらわりと普通で微妙なんだけど、いくら極限状況だといっても目に指突っ込むとかチンコ潰しとか実際なかなかできないし、台詞も冷静に考えたらわりと全体的に痛い感じなので入れてもいいかもしれない。

二人の話からすこし逸れた。戻します。

この書き方だと着想は光子が先でそこから桐山が生まれたっぽく読めるけど、実際は塑像状態の二人の設定が相互作用しあって少しずつ出来上がっていった感じかもしれない。いずれにしても、二人は〝一般的な倫理観とまったく別軸のところで生きている人間としてのキャラクター〟という意味で存在理由が共通している。だからどこかしら同じ場所から発生した感がある。二卵性双生児、あるいは、アダムの肋骨からイブが作られた的な、と言ったらちょっと風呂敷広げすぎか。

光子と桐山の相似性についてはまあこんな感じです。

で、もうひとつ引っかかったのは〝サイコ的な子〟という表現。たぶん読む人のほとんどがここに反応すると思うんだけど、〝サイコ的な子〟であって〝サイコパス〟ではないってことに気をつけて見ていきたい。このインタビューから桐山がサイコパスか否かという議論を持ちだしてくるのは違う気がすんだよね。と言いつつ、このあいだ本誌を読ませてもらった現場では自分もそこの議論に終始してしまったんだけど、家に帰って読み直したら、ちょっと反応するところズレてるなって思い直した。で、いまこれ書いてます。

〝サイコ的な子〟って表現自体曖昧だし、なんだそれって思うわけです。でも、表現が曖昧なのは自覚的にそこまでにとどめたのかなって思うところもある。なんでかっていうと、作者はインサイダーでも『エンターテイメント性』をなにより大事にしていると断言していて、究極的には光子と桐山もその増強剤としてのキャラクターなわけです。二人のキャラクターを立たせるための支柱となるバックグラウンド、光子の場合は児童虐待、桐山は脳外傷性サイコパスだけれども、それそのものについて深く掘り下げるつもりはなかったんじゃないかなー。だから二次創作で掘り下げがいがあるとも言えるが。

余談だけど、『専門的な知識はない』と断りを入れているのは、もしかしたら読者から〝医学的見地からみると桐山のような症例は存在しない〟みたいな〝トンデモ設定だ〟的な指摘を受けたのかもな。ありえなくはないが、大東亜共和国ってもっとでっかいトンデモ設定に比べたらそこは枝葉レベルだろうと思いますけどね。

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せっかくなので、桐山がサイコパスかどうかという議論、についても置いておきます。個人的見解よ。

一般的なサイコパス犯罪者って究極の利己主義傾向があるけど、桐山にはそれすらない。サイコパスは自分の中に一般的な倫理観とはまったくリンクしていない自分だけのルールがあってそれに従って生きているんだけれど、、桐山はそのルールもない。いっこ前の記事でも書いたけど、プログラムに乗るか乗らないかをコインで決めたのはその判断基準が自分の中になかったからだ。だから、桐山を純粋なサイコパスだというのはちょっと違うんじゃないかと思う。

サイコパスという言葉を使ったのは当時の空気もあったのかもしれないけどな。1991年の羊たちの沈黙(映画)を筆頭に90年代はプロファイリングが流行った時代だったし、より多くの読者に伝えることを優先したいがためにすでに浸透している文脈の中の言葉を用いることはよくある話。その結果、伝わりはしたが話し手の真意からは遠ざかってしまったなんてのもよくある話。

屁理屈こねたけど、単純に誌面に書かれた言葉通りの意図だった可能性もある。実際どうだったかは想像するしかありませんなー。

桐山の台詞

『いつ始まるのかな? このゲームは?』

主人公周りがべらべらしゃべりまくるのと対称的に、桐山は南の端以降ほとんどしゃべらない。その桐山が最初に言ったことがこれ。いいよね! しびれるよね!

作者によると、初期設定されていた桐山は決めゼリフをばんばん吐くような饒舌キャラだっらしいけどが、“よりマシーン感を出す”方向へ改稿を重ねてった結果、最終的にいまの形になったらしい。それ読んで、ほんとそっちに舵切ってくれて正解だったよと思った。感情が表情にも言葉にも一切出ないからこそ何を考えているのかわからなくて不気味で同時に魅力的なんだし。桐山ファンがおしなべて熱狂的なのも、この“ミステリアスさ”に否応なしに惹かれてしまうからだと思う。ちなみに、饒舌な桐山はインサイダーの『ボーナス・トラック』(未公開エピソード)で読めますぜダンナ。持ってない子はマケプレで買おう。安いよ。

で、桐山の台詞ですけど、これ純粋にルールを尋ねてる。坂持の説明から抜け落ちていた部分を補足すべく質問している。聞いていないようでいて、ちゃんと真面目に先生の話を聞いていたわけだ。えらいぞ~和雄。

坂持が桐山の問いに答えて桐山は疑問を解消する。質問と回答。その答えは他の生徒たちにとっても有用だったはずだけど、同時に〝桐山がやる気になってる〟と感じた生徒は少なくなかったように思う。あるいは、桐山にとっては単なるルール補足目的の質問でしかなかったあの言葉が、疑心暗鬼にかられた生徒たちにはまるで桐山がゲームの始まりを待ちわびているように聞こえたんじゃないかな。それで、黒長や笹川や金井が桐山に出会ったとき、恐怖心から先に攻撃を仕掛けた可能性はじゅうぶん考えられる。

桐山は教室を出ていく前にメモを渡してファミリーを南の端に集めようとしたあと、南の端で金井に出会った直後(だよね?)にコインを投げた。つまり、メモを書いた時点ではまだ〝乗る〟決定をしていないってことですよね。もしメモを書く前にこっそりコインを投げて〝乗る〟ことを決定していたのなら、自分を信頼している(だろう)ファミリーを一カ所に集めてまとめて処理し、有用な武器を持っている者がいればそれを奪う気だった、という可能性が高い。沼井あたりは、鉄砲玉か人間の盾として使うことも考えたかもしれない。

でもそうじゃなかった。教室時点では、桐山はまだ何も決めていなかった。というより決めたくても決められなかった、のだと思う。なぜなら、それ(プログラム)は桐山にとって初めての経験だったから。善悪に基づく倫理観を内に持たない桐山は経験と知識によってしか物事を判断できず、それが揃わない事柄には対応できない、と。

じゃあどういう意図で桐山はファミリーを集めようと思ったのかということだけれども。思うに、聞こうと思っていたのではないか。

桐山は“正しい答え”を求めていた。彼のつぶやく「なにが正しいのかわからなくなる」という言葉の裏には、正しいことを選び取りたいという意志(感情がないとされる桐山に関しては適当な言葉ではないかもしれないが)があるように思う。もしかしたらそれすら教育なのかもしれない。「常に正しい選択肢を取れ」と。でも正しさってひとつじゃないんだよね。正しいとは思えない道を選ぶこともあると気づかせかけたのが沼井だったのかなあ。

もし、七原と典子のように桐山と沼井の出席番号順が近かったら。南の端で桐山が最初に出会ったのが金井ではなく沼井だったら。沼井が坂持と戦おうぜボスと進言していたら。桐山はコインを投げなかった可能性もある。でも現実にはそうはならなくて桐山はコインを投げたわけですが。

桐山が沼井と出会って会話をするシーンは、桐山が〝乗る〟と決めたあとなので、それ以降の台詞がはたしてどこまで本当なのかわからない。だけど、桐山が嘘をつけるかどうかはかなり怪しい。相手の心を攪乱させる目的で嘘をつくことはあるけれど、その発想自体、相手(人間)の心の動きを想像できない人には無理だと思うんですよね。桐山は自分に心がないから相手の心も想像できない、だから嘘をつくことができない、と考えるのが妥当かなと。そう考えたら、桐山の台詞はすべて本当のことであると思っていいんじゃないだろうか。

ただ、桐山のパーフェクト超人ぶりを考えると単に〝技術〟として嘘をつく能力があった可能性もありますわな。まあ、マシーンとしての桐山を直視したらそっちが正解なのかもしれん。わかってる。わかってはいるが、ここでだけは夢を見させてくれ……。

 

「俺は、どっちでもいいと思っていたんだ」

「俺には、時々、何が正しいのかよくわからなくなるよ」

「今回もそうだ。俺にはわからない」

 

だからお前に聞きたかったんだよ。お前に決めてほしかったんだ、充。

わたしにはそんな桐山の声なき声が聞こえる。

 

真面目に考察しはじめたはずなのに結局沼桐にオチるという。能力の限界!

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