エントリー

単行本化とか

『天使たちの国境』だけでは到底、単行本1冊分に満たないので、もしかしたらこのままなかったことになる可能性もあるなと思い、とりあえず雑誌連載分を電子化しました。国境の最終ページに「第二部をお楽しみに☆」って宣伝打ってたからもしかしたら何部かに分けた連載を一括で単行本にするつもりなのかもしれません。が、ここでも言及したようにその第二部自体が幻になったらどうにもならないんですよね。個人的には三村関連の話を、変な後付け設定とか入れずに書いて(描いてか)もらえたらうれしいなあとは思うんですが。

この作者さん、絵は癖がなくて読みやすいっちゃあ読みやすいんだけど、好きか嫌いかって言ったらどっちでもないです。個人的な作画希望作家を挙げておくと、鬼頭莫宏、望月峯太郎、すぎむらしんいち、古谷実。新井英樹でもいい。とにかく中学生を中学生らしく描ける作家に!

久しぶりに原作読んでて思ったけど、台詞がやっぱ翻訳っぽいのね。わざとなんだろうけど(そう思いたい)感覚的に苦手な人けっこういたんじゃないかなぁ。わたしは翻訳物ほとんど読まないのでいまだにちょっとぞわっとします。特に「なのよ」「なんだわ」「だぜ」的な台詞回しが。ただ二次をよるときこれを変えてしまうとキャラ自体が変わってしまうので、そこはぐっとこらえて原作に準拠するんですが。

10年

  • 2011/06/17 14:19
  • カテゴリー:雑記

久しぶりにドラサイトのFLASHを観て当時の自分のことを思い出しました。ドラサイト(ラサイト・オラサイトとも)とは10年ほど前に流行ったFLASHサイトです。たぶん30代前半~20代半ばくらいの方には懐かしい響きのはず。中学生男子が喜びそうなくっだらないネタでよくあれだけ盛り上がれたなあと思いながら、実際観たらちょっと笑ってしまったので今も精神年齢はそんなに変わってないということが証明されてしまいました。というより知識とか捻りが不要な中学生男子的笑いは全年齢に通ずる笑いということなんかもしれん。どんなかっていうのは稲中とかイメージしてもらったらわかりやすいと思います。気になる人は「ドラサイト FLASH」でググれ。

10年前といえばちょうど自分がバトロワにはまりにはまってた頃です。一人暮らしで日中仕事しつつ、帰って来てから原稿やってサイトいじってイベント出て自家通販して…って今思えばすごいエネルギーだったなあと思います。なんでそこまで出来たかっていうと若くて体力あったっていうのもそうなんですが、単純に楽しかったんですね。別にすげー売れたとか利益でウハウハだったってことじゃないですよ。ただ、自分の作ったものに「おもしろかった」「よかった」と言ってもらえることが。作品を通じて全く知らない人と交流できたことがうれしかったしおもしろかった。描く→感想もらう→うれしくてまた描く→感想もらう→うれしくて(ryというループ。それが創作の原動力になってたんだと思います。

ただ作品自体はもう今はとても直視できないレベルです。なんでダメなのか100%理解できる。キレイにまとめようと小手先だけで書いてる(描いてる)臭がすごくて目も当てられない。そういうのが透けて見える作品はダメです。ぶっちゃけて言うと今サイトに上げてる作品も、ほんの1つ2つを除いて他は削除したいと思ってるんです。しませんけどね。

電子化しようと思って蔵書を整理してたらバトロワの原作が出てきたので読み返したら少し何か書けそうな気がしたので戒めのためにこんなこと書いてみました。あと光子のイメージは奥菜恵だったんだけど、今は沢尻エリカ(デビューしてすぐのセーラー服着てた頃)のがしっくりくるなと思っている。

ヤンチャン第一部・完(消化不良)

ヤンチャンバトロワ第一部完……ということでずいぶん間が空いてしまいましたがお久しぶりでございます。第二部がどうなるかが不安、というか幻の第二部にならなければいいんですが。スラムダンクみたいに。

読み終えては、金かけた二次創作だなというのが率直な感想。高見広春の名前がついてるからオフィシャルとして見るしかないんだけど、今さらこれやる必要あったか?と疑問に思わずにはいられない。百歩譲ってはるかレズ→委員長に恋心という設定がもともと高見さんの脳内にあったとして、今このタイミングで後出しする必要性がどこにあるんだろうと。完全に推測で言いますが、おそらくあの連載を真面目に読んでいたのはリアルタイムで原作に触れていた元ファンだけだろう。だとしたらなおさら今の彼らに届くようなものを作るべきだったと思う。富野由悠季が、ガンダムと共に青春を過ごした少年たちに、後年、逆襲のシャアを贈ったように。多分に中二病的要素が入っているのは否めないが、大人になってから読むとまた違った解釈や感慨を持つことができる作品ではあると思うから。

具体的には3Bの生徒の親目線とか、三村の叔父関連とか……。三村叔父周辺は第二部以降でもしかしたら使われる可能性はあるかもしれない。高見さん三村好きだからね。しかしこうなってくると今のヤンチャン読者層からの支持が得られないことは確実だ。エロと馬鹿でできてるような雑誌だからな。「いびつ」みたいなゆるい雰囲気エロ漫画が人気だというところを見ても。

いつかの日記でも少し書いたけど、もし高見さんが本当に書きたくて始めた企画だったんだとしたら、小説の形で出すべきだった。商業ラインに載せなくても今ならいくらでも発表の場はあるんだし。ファンにあの頃と同じ熱量を持って迎えてもらうのは無理だとしても、そういうのならきっと喜んで受け止めてたんじゃないかなあと思う。アプローチの仕方からそういった情熱とか気持ちは感じられなかったし、実際作品を読んでもその思いは変わりませんでした。それがとても残念でした。

ヤンチャン第二話

第一話を読み終えた段階で頭をよぎったことだけど、これは『完全新作』じゃないだろう。灯台組を掘り下げて描くのはいいけど、それならそれでちゃんと『灯台組の真実』て謳った方がよかったと思う。詐欺とまでは言わないけど、あのコピーで高見広春の新作が読めると思って買った人間はちょっと騙された気になるかもよ。逆に『灯台組の話なら読みたい』って思ったかもしれないファン層も取りこぼしてる可能性もある。

ただそう(灯台組の話だと)打ち出しても元々の原作ファンを全部取り込めたかは怪しいところだ。出版から十年以上経ってるし、リアルタイムでファンだった人間はそこそこいい歳になってるはずで、わざわざ買ってまで読もうとする人間がはたしてどれくらいいるのか……。せいぜい会社の行き帰りにコンビニで立ち読みする程度じゃないか? 編集部が一体どの層をターゲットにしてこの企画を立てたのか知りたい。企画ありきだったのか高見さんからのアプローチだったのかも。しかし仮に高見さんの要望だったとしたら小説の形で出そうとするだろうから、きっとコミカライズの企画ありきだったんだろうな。3Dの公開で起こるかもしれないリバイバルブームにあやかれれば御の字、というようなところかもしれない。

我ながら厳しいことばっか言ってると思います。読んでおられる方の中には『おまえファンなんじゃねーのか?』と思われているかもしれませんが、これはファンだからこそなんですよ。

今のところ出てきた新設定は、はるかが同性愛者だってことと、幸枝(委員長)の父親が軍人だってことぐらい。幸枝は軍人の父親を嫌っているようで、そのことが七原に抱いている好意のバックグラウンドになってるんじゃないかとの邪推はできる。だけど、これはわたしに原作の内容が予備知識として入っているから可能なんであって、何の予備知識もないまま読んだ場合、物語としてどうなんだという疑問が沸く。

他の掲載作品を目当てにヤンチャンを買ってる人はこの漫画をどう見てるんだろうか。むしろ飛ばし漫画にされてたりして。自分がジャンプ買ってた時はキャプ翼がそうだったな。>飛ばし漫画

第3号は2月8日発売です。

ヤンチャン第一話

ざくっと言うと、はるか目線で語られる『灯台組』の話です。原作では描かれなかった『灯台組に何が起こったか?』というもの。そして意味ありげな宣伝文句によって物議を醸していた『百合なのか?』という問いの答えはイエス。はるかが委員長に対して恋心のようなものを抱いています。はるか自身は自らが『同性愛者』であると自覚しており、そのことを揶揄して『あたしはヘンタイだ』と言い切っているのですが、ただ、これが本格的な同性愛者のそれかと聞かれたらうーん、どうかな。男子に対する、あるいは自分の女性性に対する否定・拒絶の表れのようなものかもしれないという可能性も否定できない。もちろんまだそこまで描かれてないし、描かれない可能性も大だけど(あくまでもプログラム中の話だから)、そもそも高見さん、これって後付け? それとも元設定だったの? 原作読んでそれなりに感じるものがあった人間からしたらそこハッキリしてくださいと言いたい。編集部にメールしてやろうか。

第2号は次週火曜25日発売です。

百合ロワ

新作バトロワは百合らしい、と盛り上がっているようです。ソースはコミックナタリー。紹介文中の『女委員長に思いを馳せる女子生徒が主人公』の一文が妄想を掻き立てているんだろう。

まだ実物見てないんでなんとも言えないんですが。

どうでもいいこと

  • 2011/01/11 23:15
  • カテゴリー:雑記

わたしは高見広春を特別贔屓の作家には位置づけていません。バトロワも作品としては好きだけど、高見さんを好きな作家って括りには入れてない。これはわたしにとって『好き』の対象になるのは、その中にいくばくか自分の表現指標となりうるものがあるということが条件だからでR。そういった意味ではバトロワは当てはまらないのでR。あの独特の文体も、ギャグセンス(と言うのか微妙だが)も実はあまり好みではないのでR……。(しつこい)

バトロワコミカライズ

「バトル・ロワイアル」完全新作が来年ヤンチャンで始動

明後日1/11発売のヤンチャンで連載スタートだそうです。とりあえず立ち読みで済まそうとしてますがファン失格でしょうか。

高見広春が原作を書き下ろしたというので、少しだけ期待してます。舞台設定がいつなのかわからないけど、どうせ今やるなら現代にして欲しいよなぁ。ただ高見さんがそこまで時代とリンクした脳みそでいるかというところに一抹の不安はあるのだが……。

シンジとユタカ

今さら言うこともないでしょうが三村が好きです。というわけで今日は、あえてここまでほぼノータッチを貫き通してきた豊の存在をあらためて考えてみたいと思います。

三村が豊に執着する理由がわからなかった、という体で豊を書くのを避けてきました。ま、根本的なところで豊に食指が動かなかったっていうのもあるけど、メインで扱うのは無理でも三村を書くためのコマとして豊を使うこともできたはずで、それすらしなかったのはやっぱり三村が豊を必要としているという設定を受け入れたくなかったからなんだろうな。つまり豊をキャラとして好きになれなかったということです。

でも原作に則って考えるなら三村の相手は豊(BL的な意味ではなく)というのは抗いようのない事実で。原作派を自負しているくせに豊を無視してるってのは矛盾してるんじゃねーかと今さら、ほんと今さらだけど思ったわけです。

三村と豊をあえて真逆の位置づけにして対比させ、三村に欠けている部分を補ってくれる相手として豊を設定したって意図が作者の中にあったんだろうってことは推測できるし理解もできる。自分が他人を本心から好きになれない、信用できない人間だってことをわかっている三村が(中学3年でそこまでガチガチに固める必要もないと思うけど)、金井泉の一件を通して豊にはその自分ができないことを自然にできる才能があるってことに気づくくだりも、二人の関係性を成立させる裏付けとしては機能してる。だけどなんとなくすっきりしないモヤモヤした気持ちはなんなんだろうってずっと思ってて、じゃあ逆に三村と豊に共通する要素ってなんだろうって考えた時にそれは笑いなんじゃないかって。

絶望の中に置かれた人間が唯一希望を見いだせるものって笑いなんじゃないだろうかって意見はもういろんなところで目に耳にするので手垢のつきまくった考え方ですが、作者もどこかでこの考え方を持っているような気がする。インサイダーも原作も本棚の奥なので裏取らずに書いてるけど、どこかでそのあたりに言及したことあったかもしれない。三村と豊の関係性および三村の豊に対する入れ込み方とか執着の理由を紐解く入口はここなんじゃないかと思ったわけですね。

でもここには根本的な問題が。あの二人、笑いの質が違うように思うんだよな。

三村の皮肉やブラックジョーク的な笑いで相手に「笑わせる笑い」に対して豊は道化を演じて雰囲気を明るくするだけの「笑われ笑い」なんだよな。いわゆる「明るいやつ」と「おもしろいやつ」の違いが二人にはある。お互いないものねだりって言えばそうなのかもしれないけど、豊の楽しさはいじめられっ子がいじめられながらも苦肉の策で作る愛想笑いみたいに見えてわたしはちょっとあまり好きではありません。豊を好きになれない理由は能力のなさから三村の足手まといになったからでも、見た目でも、幼稚な自己保身のために三村の計画をぶちこわしたことでもなく、その笑いのセンスが相容れないからなんだってことに最近ようやく気づきました。苦節十年、長い道のりだった。

今後豊をどう扱っていくかはまだ未知数ですが、これである程度消化した感じがするのでなんとか書ける、かもしれません。

予想していたが盛り上がらない

3Dにしてリバイバルヒットを狙おうとした安易な目論見は思い切り外れましたね。 下の記事内で紹介した映画秘宝を読みましたが、あらためて深作監督と原作者の製作意図が乖離していると感じました。当時、映画化にあたって非常に残念だったのは脚本なんです。原作のどこをどう読んだらあんなホンになるのか不思議でしょうがなかった。読解力があるとかないとかそういうレベルじゃない。改悪もいいとこですよ。デキの悪い息子なんか使わず、笠原和夫あたりに脚本を書いてもらいたかったな。深作の甘い親心があの映画を駄目にした。わたしは今でもそう思っています。なので2は未見です。今後も見るつもりはない。 そして、いかに当時の騒動が「中学生同士が殺し合いをする」という設定にのみ、過剰反応していたかも思い知らされました。そのおかげであれだけ話題になったとも言えるので、恩義がないわけじゃないですが、頼んだ覚えはないのでありがとうとは思わない。 映画BRの特集なので仕方ないんですが、もともと作者は、子供と大人の関係がどうとか、当時の時代的・社会的背景との関連性とか、そういった大層なメッセージを伝えるためにあの話を書いたわけじゃないということが置き去りにされている。下敷きになっているのが「死のロングウォーク」であるとか、作中に登場する「城岩町」がキングの小説に出てくる「キャッスル・ロック」を日本語に置き換えたものというエピソードからわかるように、作者はスティーブン・キングのファンです。一貫して「娯楽である」ことを信条としてきたキングを尊敬しているのならば、自ずと作者も同じ信条に貫かれているはずだと考えるがどうだろうか?

社会風刺を目的とするなら、今だったら「高額バイト」という餌で釣って集めた派遣労働者同士を殺し合わせるとかありかもしれない。水嶋ヒロの次回作のネタにどうかな。

ユーティリティ

2024年11月

- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

新着エントリー

知識が限界
2024/05/26 16:11
叔父さんと山
2022/06/03 02:11
七原の実写イメージ
2022/06/03 02:06
コミケ前日
2019/08/09 16:34
脱稿
2019/07/26 19:44