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  • 2017/01/07 18:58
  • カテゴリー:更新

ひさしぶりに更新しました。沼井と桐山の話です。年末のボクシング(主に内山戦)見て思いつきました。特に今回に限ったことではないですが、調べ物とか一切してないので細かいところはザルです。

ファミリーの中ではそれなりに沼井が理解者だったとは思うけど、かといって二人の間の意思疎通が完璧だったとかはみじんも思わないです。沼井もそれを受け入れつつ、凡人なのでそのことにたまにがっかりしたりとかしつつ、いなしてたんじゃないかなあというのが今のおれのきもてぃ。

あと、今年の更新分からアップした日を入れていこうと思いました。いまさら。

1997年の時刻表

  • 2016/11/21 23:56
  • カテゴリー:雑記

書きたいことを書くために調べ始めたはずなのに、いつのまにか調べたことを使うために書いてるみたいなことってありますよね。おれはある。

大東亜の設定を詰めていこうとするとそうなりがちです。実際の歴史や地理を当たっていくことになるんですけど、そもそも大東亜共和国なんてものはないわけで。史実とフィクションを繋ごうとすれば当然無理が出てくるんだから、はなから適当にぼかして書けばいいものを意地になっちゃうの悪い癖だからなおしたい。

三村家の一族

結婚相手にそういう女を選んだ(選ばされた?)父親含め、三村の母親の人生ポジション取りなんか見てると、父権が強く女が弱い保守的な家系なのかなーと思う。

三村は父親だけじゃなくそんな母親も見下しの対象にしてるっぽいので、反動で千草みたいな女の趣味になったのかもしれない。つきあって上手くいくかどうかはさておき。

そんなことを考えていると、実際問題、三村の両親嫌悪に叔父がどれくらい関与していたのかなというようなことに行き当たります。三村叔父がどこまで自覚して信史教育をやってたかなんですよねー。

保守的な家系で叔父みたいな人間がつまはじきにされてただろうことは想像できるし、家庭に居場所がなかったからその代わりを別のところに求めてって、大学あたりで反政府思想を持つクラブ的なところに入ってったとか。安易ですけど。あの国であの活動をするなら実家からは半勘当みたいなことになっててもおかしくない。

叔父は三村家の墓に入れたんだろうか

やっぱり沼桐が好き

今、充の脳裏に、随分前からたった一つだけ気がかりだったことが蘇っていた。それはずっと、大したことではないと思って、ずっと心の隅っこで起こりをかぶらせていたことだった。つまり、

 彼は、桐山和雄の笑顔を一度も見たことがなかったのだ。

――BATTLE ROYALE(新書版) 101ページより

 

大したことです。(きっぱり) 二年も一緒にいる友だちの笑顔を一度も見たことがないなんて普通じゃないだろう。だけど、沼井なら、まあ、ありえるかもなー、と思わせるなにかがあいつにはある。性格ももちろんだけど、沼井は桐山を“対等な友人”と認識していなかったようには読めるから。

 沼井にとって桐山は言葉通り〝ボス〟だったわけで、素直に読めばそこには、桐山:沼井=主:従の関係が成立していたのね。が、同時に沼井自身は、自分たちをトレーナーとボクサーの関係に例えている。ボクサーを育てるとき、決定権を持つのはトレーナーなので、主従で言うなら、トレーナーが主でボクサーが従の関係だろう。もし沼井が桐山に全ての指示を仰ぎそれに従うという図式なら単なる主従関係ということになるが、彼らは逆だった。沼井の指示決定に桐山が従っていた、ということになる。育てながら従ってたみたいな? うーん、ややこしい。

 実際、プログラム以前に桐山が沼井にこうしろと指示を出したことはないように読めるので、もしそういう場面が訪れた場合、沼井がどうしたかは想像するしかないんだけど、あの南の端で「ゲームに乗る」としたことを、最初で最後の桐山から沼井に対する〝命令〟だったと捉えるのはまあありだと思う。だから沼井が早くあそこに着いていたらと思うんだよ。いつもみたいに沼井が決定していたらってねえ。桐山に決めさせるのはお前のポリシー的に違うだろ沼井、と。言いたい

早く言いたい。(RG)

でも、毎日べったりの友人関係でひとかけらも笑顔を見せない相手に〝大した〟疑問も抱かず付き合える沼井はある意味すごいと思う。もしかしたら、そういう相手と付き合うのに慣れてたのかな。親があんまり子供に興味ないタイプで、冷たくあしらわれることが当たり前だったとか。もしそうだったとしたら、桐山の「こういうのもおもしろいんじゃないか」という〝つぶやき〟も、沼井にとっては自分の提案を、ひいては、沼井自身を肯定する言葉に聞こえたのかもしれない。それがうれしくて、また新しいことを桐山に提案し、またそれを受け入れられる。それが沼井にとってなによりの喜びだったのかもしれない。

そこまで深読みすると、単なる主従関係だけでなく、得られなかった父親と息子の親子関係の再構築にも思えてくる。

単純馬鹿に見えて実は闇が深かったのか、沼井。

川田と三村もその切り口で取り上げられそうな気がするんだけど、いかんせん接点が少なすぎるのと、三村の場合はそこにもう一枚叔父というフィルターがかかってくるのでややこしさが沼井と桐山の比じゃないという。

ユリイカインタビュー読んだよ

先日、件のユリイカに掲載された高見広春インタビューが読めました。yさんありがとう。その中で作者が光子と桐山について言及してるんだけど、これがちょっといろいろ言いたくなる内容でしてね。読んでない方も多いと思いますので、引用しつつあーだこーだやってみたいと思います。まずは該当部分をご覧ください。

 

それで、その相馬さんの場合はしかし、そうした倫理を排除できるだけの価値体系を持っているんです。もちろん不幸にも、ということですが。いわゆる児童虐待の犠牲者ですが、胸くそ悪いことにそういうことは実際にあるんですね。それで彼女は、彼女なりの価値観を組み立てて、もう奪われる側はごめんだ、と結論したわけです。この世界が所詮その程度の世界であるなら、こっちもそのつもりでやってやる、と。お話の中にはもう一人サイコ的な子がいるんですが、それは専門的な知識はないんですが、サイコパス殺人鬼の脳外傷の話とかあってそれはそれで怖いなと思って二つ入れたんですね。言わば、先天的な要素と、後天的な要素と。

――ユリイカ1999年12月号 高見広春インタビューより

 

城岩中学校3年B組42人の中に〝サイコな子〟が2人いて、後天的要因による光子と先天的要因による桐山(桐山ははっきり固有名詞出されてないけども。むしろここまで書いといてなぜ名前だけ伏せた)という異なる2種類の異物がクラスメイトの中にいたら普通に怖いし読み物としても面白いんじゃないかと思ったということですね。

たしかに、中学校のクラスメイト同士でバトルロイヤルやるって構想をベースにしたらば、おそらく大方の生徒の行動は一般的な倫理観の枠を大きくははみ出ない、というか出せないからな。香川の田舎の中学生だったらなおさら。でもそれじゃエンタメとしてつまらないですから、〝ぶっとんだ行動をするキャラクター〟を何人か配置することにしたんだと思う。主人公3人は別枠として、桐山、光子、三村、杉村、あたりがその役割を担ってる。千草は行動だけ見たらわりと普通で微妙なんだけど、いくら極限状況だといっても目に指突っ込むとかチンコ潰しとか実際なかなかできないし、台詞も冷静に考えたらわりと全体的に痛い感じなので入れてもいいかもしれない。

二人の話からすこし逸れた。戻します。

この書き方だと着想は光子が先でそこから桐山が生まれたっぽく読めるけど、実際は塑像状態の二人の設定が相互作用しあって少しずつ出来上がっていった感じかもしれない。いずれにしても、二人は〝一般的な倫理観とまったく別軸のところで生きている人間としてのキャラクター〟という意味で存在理由が共通している。だからどこかしら同じ場所から発生した感がある。二卵性双生児、あるいは、アダムの肋骨からイブが作られた的な、と言ったらちょっと風呂敷広げすぎか。

光子と桐山の相似性についてはまあこんな感じです。

で、もうひとつ引っかかったのは〝サイコ的な子〟という表現。たぶん読む人のほとんどがここに反応すると思うんだけど、〝サイコ的な子〟であって〝サイコパス〟ではないってことに気をつけて見ていきたい。このインタビューから桐山がサイコパスか否かという議論を持ちだしてくるのは違う気がすんだよね。と言いつつ、このあいだ本誌を読ませてもらった現場では自分もそこの議論に終始してしまったんだけど、家に帰って読み直したら、ちょっと反応するところズレてるなって思い直した。で、いまこれ書いてます。

〝サイコ的な子〟って表現自体曖昧だし、なんだそれって思うわけです。でも、表現が曖昧なのは自覚的にそこまでにとどめたのかなって思うところもある。なんでかっていうと、作者はインサイダーでも『エンターテイメント性』をなにより大事にしていると断言していて、究極的には光子と桐山もその増強剤としてのキャラクターなわけです。二人のキャラクターを立たせるための支柱となるバックグラウンド、光子の場合は児童虐待、桐山は脳外傷性サイコパスだけれども、それそのものについて深く掘り下げるつもりはなかったんじゃないかなー。だから二次創作で掘り下げがいがあるとも言えるが。

余談だけど、『専門的な知識はない』と断りを入れているのは、もしかしたら読者から〝医学的見地からみると桐山のような症例は存在しない〟みたいな〝トンデモ設定だ〟的な指摘を受けたのかもな。ありえなくはないが、大東亜共和国ってもっとでっかいトンデモ設定に比べたらそこは枝葉レベルだろうと思いますけどね。

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せっかくなので、桐山がサイコパスかどうかという議論、についても置いておきます。個人的見解よ。

一般的なサイコパス犯罪者って究極の利己主義傾向があるけど、桐山にはそれすらない。サイコパスは自分の中に一般的な倫理観とはまったくリンクしていない自分だけのルールがあってそれに従って生きているんだけれど、、桐山はそのルールもない。いっこ前の記事でも書いたけど、プログラムに乗るか乗らないかをコインで決めたのはその判断基準が自分の中になかったからだ。だから、桐山を純粋なサイコパスだというのはちょっと違うんじゃないかと思う。

サイコパスという言葉を使ったのは当時の空気もあったのかもしれないけどな。1991年の羊たちの沈黙(映画)を筆頭に90年代はプロファイリングが流行った時代だったし、より多くの読者に伝えることを優先したいがためにすでに浸透している文脈の中の言葉を用いることはよくある話。その結果、伝わりはしたが話し手の真意からは遠ざかってしまったなんてのもよくある話。

屁理屈こねたけど、単純に誌面に書かれた言葉通りの意図だった可能性もある。実際どうだったかは想像するしかありませんなー。

桐山の台詞

『いつ始まるのかな? このゲームは?』

主人公周りがべらべらしゃべりまくるのと対称的に、桐山は南の端以降ほとんどしゃべらない。その桐山が最初に言ったことがこれ。いいよね! しびれるよね!

作者によると、初期設定されていた桐山は決めゼリフをばんばん吐くような饒舌キャラだっらしいけどが、“よりマシーン感を出す”方向へ改稿を重ねてった結果、最終的にいまの形になったらしい。それ読んで、ほんとそっちに舵切ってくれて正解だったよと思った。感情が表情にも言葉にも一切出ないからこそ何を考えているのかわからなくて不気味で同時に魅力的なんだし。桐山ファンがおしなべて熱狂的なのも、この“ミステリアスさ”に否応なしに惹かれてしまうからだと思う。ちなみに、饒舌な桐山はインサイダーの『ボーナス・トラック』(未公開エピソード)で読めますぜダンナ。持ってない子はマケプレで買おう。安いよ。

で、桐山の台詞ですけど、これ純粋にルールを尋ねてる。坂持の説明から抜け落ちていた部分を補足すべく質問している。聞いていないようでいて、ちゃんと真面目に先生の話を聞いていたわけだ。えらいぞ~和雄。

坂持が桐山の問いに答えて桐山は疑問を解消する。質問と回答。その答えは他の生徒たちにとっても有用だったはずだけど、同時に〝桐山がやる気になってる〟と感じた生徒は少なくなかったように思う。あるいは、桐山にとっては単なるルール補足目的の質問でしかなかったあの言葉が、疑心暗鬼にかられた生徒たちにはまるで桐山がゲームの始まりを待ちわびているように聞こえたんじゃないかな。それで、黒長や笹川や金井が桐山に出会ったとき、恐怖心から先に攻撃を仕掛けた可能性はじゅうぶん考えられる。

桐山は教室を出ていく前にメモを渡してファミリーを南の端に集めようとしたあと、南の端で金井に出会った直後(だよね?)にコインを投げた。つまり、メモを書いた時点ではまだ〝乗る〟決定をしていないってことですよね。もしメモを書く前にこっそりコインを投げて〝乗る〟ことを決定していたのなら、自分を信頼している(だろう)ファミリーを一カ所に集めてまとめて処理し、有用な武器を持っている者がいればそれを奪う気だった、という可能性が高い。沼井あたりは、鉄砲玉か人間の盾として使うことも考えたかもしれない。

でもそうじゃなかった。教室時点では、桐山はまだ何も決めていなかった。というより決めたくても決められなかった、のだと思う。なぜなら、それ(プログラム)は桐山にとって初めての経験だったから。善悪に基づく倫理観を内に持たない桐山は経験と知識によってしか物事を判断できず、それが揃わない事柄には対応できない、と。

じゃあどういう意図で桐山はファミリーを集めようと思ったのかということだけれども。思うに、聞こうと思っていたのではないか。

桐山は“正しい答え”を求めていた。彼のつぶやく「なにが正しいのかわからなくなる」という言葉の裏には、正しいことを選び取りたいという意志(感情がないとされる桐山に関しては適当な言葉ではないかもしれないが)があるように思う。もしかしたらそれすら教育なのかもしれない。「常に正しい選択肢を取れ」と。でも正しさってひとつじゃないんだよね。正しいとは思えない道を選ぶこともあると気づかせかけたのが沼井だったのかなあ。

もし、七原と典子のように桐山と沼井の出席番号順が近かったら。南の端で桐山が最初に出会ったのが金井ではなく沼井だったら。沼井が坂持と戦おうぜボスと進言していたら。桐山はコインを投げなかった可能性もある。でも現実にはそうはならなくて桐山はコインを投げたわけですが。

桐山が沼井と出会って会話をするシーンは、桐山が〝乗る〟と決めたあとなので、それ以降の台詞がはたしてどこまで本当なのかわからない。だけど、桐山が嘘をつけるかどうかはかなり怪しい。相手の心を攪乱させる目的で嘘をつくことはあるけれど、その発想自体、相手(人間)の心の動きを想像できない人には無理だと思うんですよね。桐山は自分に心がないから相手の心も想像できない、だから嘘をつくことができない、と考えるのが妥当かなと。そう考えたら、桐山の台詞はすべて本当のことであると思っていいんじゃないだろうか。

ただ、桐山のパーフェクト超人ぶりを考えると単に〝技術〟として嘘をつく能力があった可能性もありますわな。まあ、マシーンとしての桐山を直視したらそっちが正解なのかもしれん。わかってる。わかってはいるが、ここでだけは夢を見させてくれ……。

 

「俺は、どっちでもいいと思っていたんだ」

「俺には、時々、何が正しいのかよくわからなくなるよ」

「今回もそうだ。俺にはわからない」

 

だからお前に聞きたかったんだよ。お前に決めてほしかったんだ、充。

わたしにはそんな桐山の声なき声が聞こえる。

 

真面目に考察しはじめたはずなのに結局沼桐にオチるという。能力の限界!

さくらと和彦

今読むとあの二人がいちばん悲しい。個人的には灯台組より絶望を感じる。当時はあれを一種の美しさだと考えていたところがあったんだけど、今はそんなふうには思えないですねえ。中学生に自ら生きることを諦めさせるって罪深いよ。深読みするなら、あのくだりは三村叔父の言う「本当に美しくあろうとしたらこの国では生きていられない」への皮肉にもとれる。たとえ表向きだけであったとしても、妥協して無抵抗主義を掲げるならどんなにみじめにぶざまになっても生き続けなくてはいけない、ということなのかなあと。百パー言い切る自信ないけど。だからあの二人には生きていって欲しかったですよ。プログラムに参加させられた時点でそれはもう叶わぬことだとさくらは思ったんでしょうけど、七原と典子が〝二人で〟生き延びたことを考えると、そこにも諦めるなのメッセージが含まれている気がするんだよね。作者が意図したかどうかは別にして。常識や当たり前を疑って戦い続けろってことかなと。そういう面で捉えると、反体制反権力反大人反常識を軸に据えた深作の映画版アプローチは決して間違ってはいなかったが、ほかの何かが間違ってたんだ。笑

さくらと山本ってセットだけど、〝彼女の価値観に殉じる〟って表現を見ても実質的にはさくらだ。もちろんそのさくらが選んだ相手って意味では山本なんだけど、さくらありきで見てしまうと、どうしても彼は少し記号的に見える。

彼女があの状況であの決断をなしえたのは、普段からその選択肢を心中に持っていたという証拠だと思うんだよね。自分が死ぬ可能性と大事な人が死ぬ可能性。さくらの告白の中にテーブルの話があったけど、あそこすごく生々しい。父親が殺された記憶とごはんが結びついてる、生きることを支える食事と死が一緒になってる描写に、何度読んでもうっとなる。映画『グレムリン』で、登場人物の女性が自分の子ども時代を語るシーンに『クリスマスにサンタを待っていたけど来なくて、煙突を見たら中から出てきたのはお父さんの燻製だった。(子供を驚かせようと煙突に入ったら出られなくなってそのままいぶされて死んだ)だからクリスマスは嫌い』って絶望的なエピソードが出てくるんだけど、それと同じで食事のたびに父親の死を思い出すってことだよね。血の臭いと食事の匂いが記憶を誘発する感じ。警官がそこまで計算してタイミングを狙ったのかどうかはわからないけど、もしそうだったら最悪にゲスだ。でもあの国の設定ならやりかねない。

さくらが同級生たちより大人びて見えたっぽく書かれているのは、山本と肉体関係を持ってたってのもあるだろうが、そういう精神の持ちようによるところも大きかったんじゃないかと思う。大人になるってそういう側面でもあるから。

山本って相手を得たときから、彼女が最悪の事態をシュミレーションしてた……って思うとほんともう絶望しかない。

StingのFragileという曲がさくらのイメージです。

三村の〝ナンバーワン〟は瀬戸なんですよ

このあいだ #自分の都合の良いように解釈しまくったキャラクターを構築しなおしてみようの会 というのをフォロワーさんと立ち上げました。自己創作にフィットさせたいがためにキャラクター像をゆがめてしまうことってありますよね? これはそうなってしまったキャラクターに対して今一度原作に忠実な解釈を試みてみよう、という趣旨の会です。その一発目を三村にしました。原作読み返したら完全に三村のシーンは瀬戸無双だったわけです。あとちょっと叔父。杉村なんか一瞬思い出すだけなわけですよ。杉三とかめっちゃ針の先でつついた穴程度なんですよ。よく見たら穴もあいてなかったかもしれない。なんなら、リアタイの頃、一時期血迷ってハマった飯島三村のほうがまだ可能性ある。それに比べたら三村瀬戸は超王道、今風にいうと公式が最大手なわけです。だから逆に手をつける気にならないという人もいるだろう。わたしだ。

ただ、手をつけるにせよつけないにせよ、自分の三村像がウルトラQのオープニング映像レベルでゆがんでしまった原因のひとつは、間違いなく瀬戸との関係をスルーしてきたせいであり、そこを抜きに真の三村像に到達することはできないのではないか、と思い至ったわけであります。

普段三村に対してひどいことばっか言ってますけど、これでも自覚はあるんですよ、たちが悪いことに。同時に軌道修正したいなって気持ちもずっとあったんですよ。良く言えば原点回帰というか。後出しだけれども、pixivの3年B組追悼記念(毎年涼さんが企画してくださってます)の2013年版で書いた三村叔父の「花になれ」はその一端でした。あと今はサイトから下げてるけど三村三部作もけっこう真面目に原作読んで書いたはず。あとなんかあった気がするけど忘れた。あっ、思い出した、リアタイでやってた頃、一番初めに書いたイラスト! 全部で三枚あってそのうちの一枚が三村と瀬戸のシーでした。残りの二枚は杉村と琴弾、あと川田単体だったな。(イラストはpixivに上がってます。〝国防委員長@大東亜共和国〟のアカウントのほう)それを鑑みても、最初はこじらせてなかったんですよ。だからやろうと思えばできるはず。できるはず。できるよね?

疑問については、三村家の家庭不和と妹(郁美)と瀬戸との関係、のあたりをベースに自分なりの答えを出そうと思ってます。できれば物語の形で出せればと思いますが、いつになるかわからないので期待しないでお待ちください。

15周年記念アンソロジー

先日の29日の通販受付をもって無事すべての頒布を終了しました。

夏コミ、スパコミの各イベントへに足を運んでくださった方、通販でお申し込みいただいた方、ありがとうございました。

なお、すでに公式アカウントから告知した通り、再販の予定はありません。

通販分が受付開始15分ほどで完売してしまったため、すべてのご購入希望者様にお買い求めいただくことができなかったかもしれません。申し訳ありません。「欲しかったのに買えなかった」という方には大変心苦しい気持ちで一杯なのですが、今後イベントに出る予定がないこと、300を超えるページ数と特殊装丁のため再版にかかる金銭的な負担が大きいこと、また記念アンソロジーという性質、等を踏まえてこのように決断いたしました。どうぞご理解いただけたらと思います。

告知サイトの更新記録を遡ると開設が去年の8月27日でした。

1年という時間は本当にあっという間で、長い仕事だったという実感が今でもあまりないのですが、事実、1年間この企画に携わってきた、つまり、1年ずっとバトロワのことを考えていたわけです。いやー素晴らしい、バトロワクラスタの鑑ですね(自画自賛)

夏コミは参加できなかったのですが、そのあとのSCCとTwitterでアンソロの発行をみなさんが喜んでくださっているのを見たとき、種からせっせと育ててきたものが実を結んだんなあと感無量でした。

2001年に「Re:」、2008年の「Please, Please, Please, Let Me Get What I Want」と過去に二度アンソロを発行してきましたが、いずれも主催からの依頼型で公募形式は今回がはじめてでした。

今だから言えることですが、はじめは公募で執筆者を募るということに若干の不安がありました。夏コミでも1サークルしかないようなジャンルではたして執筆者が集まるのだろうかと。しかも今回は原作縛りです。「バトルロワイアル」「バトロワ」でサーチすると、出てくるのは映画版かパロロワ(他ジャンルとバトロワのコラボ)の話題ばかり……。本当に大丈夫か? 公募を告知してしまったらあとには引けません。

で、結果はどうだったか。42名集まりました。42名……。

――冗談だろ?

思わずひっくり返った軽トラックから、桐山が、すい、と降り立ったのを見た三村のようにつぶやきました。(ああ……三村←思い出している)

これは絶対に成功すると確信した瞬間でした。これは光の神アフラ・マズダのご加護に違いない!と。そこからは不安も迷いもありませんでしたね。

事務連絡と原稿が集まってからの編集作業の大部分は主催のエリックさんがやってくださったので、わたしはその裏で編集用のパーツ作りやノベルティをちまちま作ったりしていました。

ノベルティのマグネット、実はあのデザインに落ちつくまでけっこう試行錯誤してるんです。最初の案から最終稿までに5案くらい没にしてます。だから「夏コミで大東亜承認マグネットと七原のギターしおりの評判よかったよ」とエリックさんから伝えていただいたときは報われたと思いました。

というわけですので、ノベルティ開けないで置いておくって方が多いようなのですが、ぜひみなさんマグネットもしおりも使ってほしいです。笑

1年も一緒だった企画が手を離れてしまって軽い喪失感を感じています。

しかし悲しむことはありません! 消えてなくなったわけではなく、みなさんのお手元に旅立っていっただけなのですから!(誰?)

このアンソロからまた新たな創作がひとつでもふたつでも生まれればいいなと思っています。他人の作品を読んで刺激されるってよくあることですしね。自分の新たな萌えポイントに気づかされたりとか。そういうペイ・フォワードが続けばうれしいです。

あっ、次の企画を立ち上げてくださる方もお待ちしています。今はTwitterやPixivで宣伝は楽ですし。ぜひ。

今回のことで言うと、あのフライヤーが宣伝効果大きかったみたいです。バトロワクラスタ以外の人にもRTしてもらって、それで一気にアンソロアカウントのフォロワー数が増えました。

こうして書いているといろいろなことが思い出されてきます。手の内を明かすのは楽しいのですが、舞台裏は少し覗くくらいがちょうど良いのかなとも思うので、そろそろこの辺で打ち止めにします。

アンソロに関わってくださったすべての方へ、最大限の感謝を込めて。

ありがとうございました!

 

山下クロコ

改装完了

  • 2013/06/22 01:36
  • カテゴリー:更新

作品の整理を兼ねてサイトを改装しました。

三村三部作は書き直したいので一旦下げました。いつかわかんないけど直しが終わったらまた上げるつもりです。

いまここに残ってる短篇の一人称形式は自分にあってる気がする。ネタとテンポだけで押し切ってる感バリバリだけど。楽しんでもらえたらそれでいいのです。願わくば読んでくれた人の心になにか傷跡を残せたらベターですが。

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